日はかげり、いかにも秋らしい感じがしました。あたりはだんだん薄暗くなって、ぶらぶらしておりましても、なんだか二人とも気が滅入ってくるようでございました。『なあ、イリューシャ、どんな風にして旅立ちの用意をしたものかな』とわたくしが申しました。やはり昨日の一件に話をもっていこうと思いましたので。ところが、やはり黙っているじゃありませんか。気がついてみると、あれの指が私の掌の中で震えているのです。ああ、これはいかん、何か新しいことがあるんだな、と、わたしは思いました。そのうちに、ちょうど今と同じようにこの石の所までやって来て、わたしはその上に腰をかけました。すると、空には紙鳶《たこ》がどっさり上がっていて、ぶんぶんうなったり、ぱたぱた音を立てたりしていました。ちょうど紙鳶《たこ》の時節なものですから。『おい、イリューシャ、おれたちもひとつ去年の紙鳶《たこ》を上げようじゃないか。お父さんが繕ってやるよ。いったい、おまえ、どこにしまったんだえ?』と聞きましたが、あれはやはり黙って、そっぽを向きながら、わたしに横顔を見せて立っているんでございますよ。そのとき、疾風《はやて》が吹いて来まして、砂を吹き上げました。……それで、あの子はいきなりわたしに飛びかかって、小さな両手でわたくしの首筋に抱きついて、じっとしめつけるのでした。御承知でしょうが、無口でいても、気位の高い子供は、いつまでも肚《はら》の中で涙を押えているものですが、非常な悲しみに襲われてやりきれなくなると、もうそのときは涙が流れるのでなくって、まるで小川がほとばしるようでございますよ。その暖かい涙がほとばしって、わたしの顔は、たちまちずぶぬれになってしまいました。あの子はまるで引きつけたように、しゃくりあげて泣きながら、身震いをして、一生懸命にわたくしを抱きしめるじゃありませんか。わたくしはじっと石の上に坐っておりました。『父ちゃん』とあの子がわめくのでございます。『父ちゃん、あいつは父ちゃんになんて恥をかかしたんだろうね!』そこでわたくしももらい泣きをしましたんですよ。二人は石の上に坐って、抱き合ったまま震えておりました。『父ちゃん、父ちゃん!』とあれが言えば、わたしも、『イリューシャ、イリューシャ』と申します。そのとき誰も二人を見た者はございません。ただ神様だけは御覧くだすって、出勤簿につけてくだすったろうと存じます。どうか、アレクセイ様、お兄様にようくお礼を申してくださいまし。とんでもありません。あなたの御得心のいくように、あの子をなぐるわけにはとてもいきませんでございますよ!」
 彼は長談義を、元のような恨めしげな、キ印《じるし》らしい語調で結んだのであった。しかし、アリョーシャは、彼が自分を信用していると感じた。誰か他の人が自分の立場にあったとしたら、けっしてこの男は自分にこんなことを『語り』もすまいし、今、自分に話したようなことを報告もしないだろうと思った。それがアリョーシャを元気づけたが、胸は涙に震えるばかりであった。
「ああ、どうかしてあのお子さんと仲なおりがしたいもんです!」と彼は叫んだ、「もし、あなたがうまく取り計らってくだされば……」
「いや、全くでございますよ」と二等大尉はつぶやいた。
「しかも、今申し上げようと思うのは別のことです。まるで別のことです。ようござんすか」アリョーシャは叫び続けた、「ようござんすか! 僕はあなたにことづてを頼まれているんです。あの僕の兄のドミトリイは許嫁《いいなずけ》の妻をもはずかしめたのです。それは実に気高い令嬢なんですが、あなたもきっとお話をお聞きになったでしょう。僕はあの人の受けた侮辱を、あなたに打ち明ける権利を持っています。いや、打ち明ける義務があると言ってもいいくらいです。なぜと申しますと、あの人はあなたがお受けになった侮辱を聞き、あなたの不仕合わせな境遇も何もかも聞いたので、たった今、……ほんの今さっき……この扶助金をあの人の名であなたにお届けするようにと、僕にお頼みなすったからです、……もっとも全くあの人ひとりの名で、あの人を捨てたドミトリイの名ではありません。けっしてそんなことはありません。また弟たる僕の名でもありません。ほかの誰の名でもありません、全くあの人ひとりの名なんです! あの人はぜひとも納めていただくようにと、拝まぬばかりに頼みました、……だって、あなたがたお二人は、同じ人間から侮辱を受けたんじゃありませんか、……ですから、あの人があなたのことを思い出したのも、自分であなたと同じような侮辱を受けた時でした(つまり侮辱の程度が同じわけです)。それですから、まあ、妹が兄を助けるというようなものです、……あの人はあなたがお困りになっているのを承知していますから、自分を妹だと思って、この二百ルーブルという金を納めていただくように、ぜひあなたを説きつけてくれと僕に頼んだんです。このことは誰ひとり知る者がありませんから、とんでもない噂が立つ気づかいは全然ありません。で、これがその二百ルーブルです。僕、誓って申しますが、ぜひともあなたはこれをお納めにならんといけませんよ。……でないと、……でないと、世界じゅうの人はみんなかたき同士にならなくちゃならんという理屈になってきますからね! しかし、世の中には兄弟というものもあるわけじゃありませんか、……あなたは気高い心をもったおかたですから、……ぜひともお納めにならなければなりませんよ、ぜひとも!」
 と言って、アリョーシャは新しい二枚の虹色の札を差し出した。二人はそのとき、ちょうど籬《まがき》のほとりの、大きな石のところに立っていたが、あたりには誰もいなかった。二枚の紙幣は二等大尉に恐ろしい印象を与えたらしかった。彼は身を震わせたが、今のところは、ただ驚愕《きょうがく》のためばかりらしかった。彼は、こんな風なことは夢にも思わなかったし、こんな成り行きを予想だにしなかったからである。誰からにもせよ扶助金を、しかも、こんなにたいへんな金をもらおうなどとは、想像さえしたことがなかったのである。彼は紙幣を手にしながら、しばらくは、返事もできなかった。何かしら、まるで違った表情が彼の顔にちらついた。
「これをわたくしに、わたくしに、わたくしに! こんなたくさんなお金を、二百ルーブルという大金を! まあ! わたくしは、もう四年ばかりも、こんな大金を見たことがございませんよ、――まあ、これはこれは! それに、『妹から』とおっしゃるんでございますね、……それはいったい本当に、本当にでしょうか?」
「誓って申します、僕が今言ったことはみんな本当です!」とアリョーシャは叫んだ。二等大尉はちょっと顔が赤くなった。
「ところでね、あなた、お伺いしますけれど、もし、わたくしがこの金を受け取りましたら、卑屈な人間にならないでございましょうか? つまり、あなたの眼から御覧になって、わたくしが卑屈な人間にならないでございましょうか?」彼は両手を伸ばしてアリョーシャの体にさわりながら、ひとことひとこと急《せ》きこむのであった、「あなたは『妹の贈り物』だからと申して、わたしを説きつけなさいますけれど、心の中ではですね、肚の底では、わたくしを見下げた男だとお思いになるんじゃございませんか、もしわたくしがこれを受け取りましたら、え!」
「いや、いや、なあに、そんなことはありませんよ! 僕は命にかけても誓いますが、そんなことはありませんとも! それに、けっして誰も知る者はいないんですもの。知ってるのは、僕たちばかりですよ。僕とあなたとあの人と、それにあの人がかなりに親しくしている奥様がもう一人……」
「奥様なんかどうでもいいです! ねえ、アレクセイ様、どうぞ聞いてくださいまし。全くもう何もかも聞いていただかなくてはならない時が来たんでございますよ。なぜといって、今この二百ルーブルというお金がわたくしにとって、どんな意味を持っているか、あなたは御存じないからなので」二等大尉はしだいしだいに取り乱しながら、ほとんど野性的なくらいに有頂天になって、ことばを続けた。彼は前後をも忘れたかのように、まるで自分の言いたいことを、すっかり言わしてもらえなかったからと、そればかりを心配しているように、思いきり早口に言うのであった。「この金が非常に尊敬すべき神聖な『妹』から、真心こめて、贈られたということは別として、現在、わたくしはこの金でもって、『母ちゃん』とニイノチカ――あの佝僂の天使、つまり、わたくしの娘を療治してやることができるんでございます。いつかお医者のヘルツェンシュトゥベ様が、御親切なおぼしめしから、わたくしどもへおいでくださいまして、まる一時間ばかりも可哀そうな親子の者を診《み》てくださいましたが、『どうにもわからん』とおっしゃるんでございますよ。しかし、それでも、こちらの薬種屋で売っている鉱泉を、母ちゃんの処方に書いてくださいましてね、これはたしかにききめがあるとのことでした。それらの薬湯の素もやはり処方してくださいました。鉱泉は三十カペイカいたしますが、どうしても四びんくらいは飲まなければなりません。わたくしはその処方を聖像の下の棚へ載せて、今もって、そのままにしておくような始末です。ところで、ニイノチカのほうは何かの薬を熱く沸かして、お湯を使わせるようにとのことでした。しかも毎日朝晩二度ずつなのでございますよ。あなた、どうしてまあ、手前どもで、そんな療治ができるものでしょう? あの小屋で、女中もなく、手伝いもなく、道具も水もなしに何ができましょう? ところが、ニイノチカはひどいレウマチなんでございますよ。わたくしはこのことをお話しするのを忘れていましたが、毎晩毎晩、右半身が全体にずきずき痛んで、それはそれは苦しむんでございますよ、まるで嘘のような話ですけれど、あの神様のお使いはわたくしどもに心配をかけまいと、一生懸命に我慢をして、他の者が眼をさまさないようにと、うめき声さえ立てないんでございますよ。わたくしどもは食べ物も手当たり次第に、なんでもかまわず口に入れるんでございますが、その中でも、あれはいちばん悪い、犬にしかやれないようなところを取るじゃありませんか。『こんなよいところをいただくと罰があたります、それではみんなの物を取りあげることになります。わたくしはやっかい者なんですから』と、まあ、こんなようなことを、あれの天使のような眼つきが、言いたそうにしているんですよ。わたくしどもが、あれの世話をしてやるのが、あれにはつらいらしいんでございますよ。
『わたくしはそんなことをしていただく値打ちはありません、わたくしは何の役にも立たない、つまらないかたわじゃありませんか』――ところが、どうしてどうして、役に立たないどころじゃございません。あれは天使のような優しい心で、わたくしどものことを神様に祈ってくれるのでございますから。あれがいなかったら、あれの優しいことばがなかったら、それこそ、わたくしどもの家は地獄も同然なのでございますよ。あれはワルワーラの心までも、慰めてくれました。しかし、ワルワーラのことも、やはり悪く思わないでくださいまし。あれもやはり天使ですけれど、ただはずかしめられたる天使なんでございますからね。あれがここへまいりましたのは夏のことでしたが、そのころは十六ルーブルの金を持っておりました。それは子供に稽古《けいこ》などしてやって、もうけた金なので、九月――といって、つまり今ごろはペテルブルグへ帰るつもりで、それを旅費に取っておいたんでございます。ところが、わたくしどもがその金を取って使ってしまいましたので、あれはもう帰ろうにも金がない、というような始末なのでございます。それにまだ帰れもしないと申すわけは、わたくしどものために懲役人のような働きをしているからでございます。なにしろ、やくざ馬に馬具や鞍《くら》をつけて、こき使うようなありさまなんでございますからね。皆の者の世話をする、洗濯をする、雑巾《ぞうきん》がけをする、床を掃《は》く、母ちゃんを床の上に寝かしてやる――ところが、
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