してイワンではないのだと直感した。たしかにドミトリイは、たとい長い月日を要するとしても、いつかは彼女に屈服して、しかも幸福を感じ得るに相違ない(それはアリョーシャのむしろ望むところであった)。しかし、イワンはそうではない。イワンは彼女に屈服することもできないし、また屈服しても幸福になろうはずがないのである。アリョーシャはどういうわけか、心の中で、イワンに関してこういう風な考えを形づくっていたのである。彼が客間にはいったとき、こうした動揺と想像が彼の頭をかすめていった。するとまた別な考えが、またもや不意に、おさえることのできない力をもって、彼の心に忍びこんできた。『もしも、この人が誰も愛していなかったらどうだろう、二人とも愛していなかったらどうだろう?』と。
ついでにいっておくが、アリョーシャはこういう風に自分の考えを恥ずかしがるような気味で、この一か月のあいだ、どうかして、こういう考えが浮かんでくるたびに、自分で自分を責めるのであった。『いったい、自分なんかに愛だの女性だのということが少しでもわかるかしら? いったい、どうしてこんな結論ができるのか?』こういったような考えや臆測をした後で、必ず彼は、心の中でこういって自分を責め立てるのであった。といって、考えずにいるわけにもいかなかったのである。今、二人の兄の運命から見ると、この争いは実に重大な問題であり、その解決のいかんによっては、非常な結果を生ずるということは、彼にも本能的にわかっていた。
『一匹の蛇が他の一匹を咬《か》み殺すのだ』とは、昨日イワン兄が父とドミトリイのことで、憤慨しながら言ったことばであった。してみると、イワンの眼から見て、ドミトリイは蛇なのである。おそらく、ずっと前からそうなのかもしれない。ことによると、イワンがカテリーナを見たときからではなかろうか? もとより、このことばはなんの気なしに、イワンがうっかり口をすべらせてのことに相違はないが、何心なく出ただけに、いっそう重大な意味があるのだ。もしそうだとすれば、この場合、平和が訪れるわけはないではないか? それどころか、かえって、一家のうちに、憎しみと、恨みとの、新しい根拠が現われるだけではないか? それにしても、アリョーシャにとっては、二人のうち誰に同情したらいいのか? 一人一人の者に何を期待してやったらいいのか? ということが大きな問題であった。彼は二人の兄を両方とも愛してはいるが、この恐ろしい矛盾の中にあって、一人一人に何を望んでやったらいいのであろう? この迷宮にはいったら、誰しも途方に暮れてしまうであろう。ところが、アリョーシャの心は暗々裡に葬られることをいさぎよしとしない。なぜといって、彼の愛というものが実行的な性質のものだからである。消極的な愛は、彼には不可能なことであった。ひとたび愛したとなると、すぐに救済に取りかかるのである。このためには確固たる目的を立てて、それぞれの人にどんなことが望ましく、また必要であるかということを、正確に知らなければならぬ。こうして目的の正確なことを確かめてこそ、はじめて自然なやり方で、おのおのに助力を与えることができる。ところが、今は何事も正確な目的の代わりに、曖昧《あいまい》さと混乱とに満たされているのである。たった今、『破裂』ということばが出たが、しかしこの『破裂』ということばをなんと解釈したらいいのか? このあらゆるものが混沌《こんとん》としている中では、最初の一句からして、もう彼にはのみこめないのである。
カテリーナはアリョーシャの姿を見るやいなや、席を立ってもう帰りじたくをしているイワンに向かって、早口に嬉しそうに話しかけた。
「ちょっと! ちょっと待ってください? わたしは自分が心から信用しているこのおかたの御意見が聞きたいのです。奥さん、あなたも行かないでいてください」と彼女はホフラーコワ夫人に向かって、言うのであった。彼女はアリョーシャを自分のそばへ坐らせた。夫人はその向かい側のイワンと並んで腰をおろした。
「ここにいらっしゃる皆さんは、世界じゅうにまたとないわたしの親しいお友だちばかりですわ、わたしの大切なお友だちばかりです」彼女は熱しながら、こう言った。が、その声はいいしれぬ苦しみの涙に震えていた。アリョーシャの心は、またもや彼女のほうへ引き寄せられた。「アレクセイさん、あなたは昨日のあの……恐ろしい出来事を御自分で御覧になりましたわね。わたしがどんな様子であったかということも、よく御存じでいらっしゃいますわね。イワンさん、あなたは御覧になりませんでしたけれど、あのかたは御覧になったのですよ。昨日このおかたがわたしのことを、なんとお思いになったか存じませんけれど、たった一つよくわかっていることがございますの、それはね、もしも今日、いますぐあれと同じことがもう一度くり返されたら、わたしはあれと同じ気持を現わし、あれと同じことばを吐き、あれと同じ動作をしたに相違ありません、……アレクセイさん、あなたはわたしの動作を覚えていらっしゃるでしょう。あなた御自身わたしのある一つの動作を止めてくだすったんですものね……(こう言いながら、彼女は顔を赤くした。その眼は急に輝きだした)。アレクセイさん、はっきり申しますけれど、わたしはいかなるものとも妥協することはできません。それにわたし、今となっては、本当にあの人を[#「あの人を」に傍点]愛してるかどうか、自分でもよくわかりませんの。わたし、あの人が可哀そう[#「可哀そう」に傍点]になりました。これは愛のしるしとしては、あんまりたいしたものじゃありませんね。もしも、わたしがあの人を愛しているのでしたら、やはりずっと愛しているのでしたら、可哀そうになんかならないで、かえって、憎んだでしょうよ、……」
彼女の声は震え、睫《まつげ》には涙が光っていた。アリョーシャは心の中では、震えていた。『この娘は、正直で、真心がある』と彼は考えた、『それに……それに、この人はもうドミトリイを愛してはいないのだ!』
「そのとおりですわ! そのとおり!」とホフラーコワ夫人は叫んだ。
「ちょっと待ってくださいまし、奥さん、わたしはまだ肝心なことを申しておりませんの。昨夜考えたことを、まだすっかり言ってしまわないんですの。わたしの考えは恐ろしいこと――わたしにとって、恐ろしいことかもしれません。それはわたしにも感じられますけれど、わたしはもうどんなことがあっても、この決心を変えません。どんなことがあっても、一生涯この決心を押し通します。イワンさんは優しい、親切な、鷹揚《おうよう》な心を持った、永久に変わることのないわたしの相談相手で、人の気持のよくわかるかたで、世界じゅうにまたとない、わたしのたった一人のお友だちですけれど、このかたもすべての点においてわたしに賛成して、わたしの決心を褒《ほ》めてくださいましたの、……このかたはよく御存じですのよ」
「そう、僕は賛成しています」静かではあったが、しっかりした声で、イワンはこう言った。
「でも、あたし、アリョーシャにも(あら、御免なさい、アレクセイさん、わたし、ついうっかりして、アリョーシャなどと呼び捨てにしました)――わたしはアレクセイさんにも、今わたしの二人の親友の眼の前で、この決心が間違ってるかどうか、遠慮なく言っていただきたいんです。わたし、虫が知らせたんでしょうか、あなたが、わたしの可愛い弟のアリョーシャが(だって、あなたは本当にわたしの可愛い弟なんですものね)」と彼女は自分の熱した手でアリョーシャの冷たい手をとりながら、感きわまったかのように言うのであった、「わたし、こんなに苦しんでいますけれど、あなたの決心と、あなたの賛成さえあれば、わたしは気が安まるに相違ないと、前から感じていましたの。あなたのおっしゃることを聞いていると、わたしも落ち着いて、あきらめられるんですものね、わたし前からそう思っていましたわ!」
「あなたは僕にどうしろっておっしゃるかわかりませんよ」とアリョーシャは顔を赤らめながら言った、「僕はあなたを愛しています、僕は今自分自身に対するよりも、むしろよけいあなたに幸福を望んでいます! それは自分でもわかってますけれど、しかし、僕はこの事件のことは何も知らないんです……」彼はなぜかしら、口早に言い足した。
「この事件ですって、アレクセイさん、今、この事件で何より大事なことは名誉と義務です。それから、もう一つ、なんと言っていいか、わかりませんけど、義務よりも、もっと高いものがあるんです。心の中に、こういったような押えることのできない感情があることは、わかってます。そしてこの感情がわたしをぐんぐん引っぱって行くのです。でも、何もかも一言で言い尽くすことができます。わたしはもう決心しました。たとい、あのかたが、あの……わたしにはどうしても、どうしても許すことのできない売女《ばいた》と結婚なすっても、(と彼女は重々しげに言いだした)わたしはやはりあの人を見すてませんわ[#「わたしはやはりあの人を見すてませんわ」に傍点]! 今からけっして、けっして、見すてないつもりですの!」と彼女はやるせなげな、いたいたしい感激が、急にほとばしったような調子で言うのであった、「でも、なにもあの人の後を追っかけ回して、あの人の眼の前へうるさく顔を出して、あの人を苦しめようというのじゃありませんの。いいえ、どういたしまして。わたしはどこへでも、お望みの町へ越して行きます。けれど、わたしは死ぬまで、たゆむことなく、あの人を見張るつもりです。もしあの人があの女といっしょになって、不幸にでもなんなすったら、それは今にも必ず起こることですけれど、そうしたら、わたしのところへいらっしってもかまいませんわ、わたしお友だちとして、妹としてあの人を迎えます。……もちろん、ほんの妹というだけのことですわ、それはもういつまでも、そのとおりですの。わたしが本当の妹だということを、――一生涯を犠牲にしてまでもあの人を愛していることを、最後にはあの人にもわかっていただきたいんです。わたしは、この目的をどうしてもやり遂げます。あの人が、しまいにはわたしの本心をわかってくだすって、なんの遠慮もなしに、何もかも、わたしに打ち明けるように、是が非でもしてみせるつもりです!」彼女はのぼせているかのように叫んだ。「わたしはあの人の神になって、あの人にお祈りをさせます、――それは少なくとも、あの人の義務です。だって、あの人がわたしにそむいたおかげで、昨日あんなひどい目にあったんですもの。わたしはあの人に、わたしが一度約束したことばを守って、一生涯あの人に忠実にしているのに、あの人が間違った考えをもって、わたしにそむいてしまったことを、一生のあいだに、よくよくわからせてあげたいのです。わたしは、……わたしは、ただもうあの人の幸福の手段になるばかりです(どう言ったらいいでしょうね)、あの人の幸福の道具になります、器械になります。これは一生涯、本当に一生涯、死ぬまで同じことです。そしてあの人にこのさき一生涯のあいだ、それを見ててもらいます! これがわたしの決心なのでございます! イワンさんはこの決心に賛成をしてくださいました」
彼女は息を切らしていた。おそらく、彼女はもっともっと品位を保って、もっと巧妙に、もっと自然に、自分の考えを話しするつもりであったろう。しかるに、結局、あまりにも性急に、あまりにも露骨なものとなってしまったのである。おとなげなく感情に走りすぎたような点も多かったし、ただ昨日の癇癪《かんしゃく》のなごりにすぎないような点も、ただの空威張《からいば》りにすぎないような点も多かった。彼女自身も、それに気がついたので、なんとなくその顔は、急に暗くなり、眼つきも悪くなってきた。アリョーシャはすぐに、それに気がついて、同情の念が心の中でかすかに動くのを感じた。ちょうどそのとき、兄のイワンもそばから口を出した。
「僕はただ自分の考えを述べただけです」と彼は言った、「これがもし、ほかの女であったら、ごつごつし
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