Vの病気がだんだん険悪になる一方だと聞いて、はっと驚いた。今日は、弟子たちを相手に行なう常例の晩の法談さえできなかったとのことである。いつもは晩の勤行の後、安らかな眠りにはいる前に、院内の衆僧が長老の庵室へ参集して、各自今日一日のうちに犯した罪や、罪深い妄想《もうそう》や思考や誘惑、さてはめいめいのあいだに起こった争いなどを、声高らかに懺悔《ざんげ》するのであった。なかにはひざまずいて懺悔告白する者すらあった……長老はそれをおのおの解決したり、和解させたり、訓戒を与えたり、改悛《かいしゅん》をすすめたりして、最後に一同を祝福して、退出させるのであった。この衆僧の『懺悔』を楯《たて》に、長老制度の反対者が攻撃の気勢をあげて、それこそ聖秘礼としての懺悔の神聖をけがすもので、ほとんど涜神罪《とくしんざい》と言って過言でないなどと、全く見当はずれなことを言いだしたのである。あまつさえ彼らは、こうした懺悔は、なんら良き結果をもたらさないばかりか、かえって人々を罪悪と誘惑に導くのみであると言って、僧正管区長にまで問題をもちだしたほどであった。実際、衆僧の多くは長老のもとへ集まるのを苦痛に思って、不承不承やって来るのであった。それというのもたいていの者が、おれはむほんをくわだてているとか、高慢な人間だなどと思われたくないために出席するだけだからである。また人の噂では、寺僧のなかには、懺悔の集まりへ出る前に、『おれは今朝おまえに腹を立てたというから、おまえもうまくばつを合わせてくれ』などと話題をこしらえるために、仲間同士であらかじめ打ち合わせをしたりさえした。実際、こんなことがたびたびあったということは、アリョーシャも知っていた。その他にも彼の知っていることで、修行僧が肉親から受け取った手紙まで第一に長老の手へ渡されて、受信人よりも先に長老が開封して目を通すという習慣に、非常な不満をいだいている向きもあるということである。むろん、これはすべて任意の服従から有益な指導を仰ぐ目的で、自由に誠実に行なわれるべきことであったが、実際はほとんど誠実を欠いているばかりか、むしろわざとらしい技巧をもって行なわれることがあった。けれど、寺僧の中でも年長の経験深い人々は『修行のために誠心をもって、この壁の中へはいって来たほどの人には、疑いもなくこうした服従や難行が有益なもので、自分たちに偉大な利益をもたらすものであることがわかるはずである。ところが、それをわずらわしく思って不平を鳴らすような者は、修道士でないも同然で、そもそも修道院などへはいって来る必要はなかったのである。こういう人の安住すべき場所は俗世間の中にある。罪悪や悪魔は俗世間ばかりでなく、修道院の中でも、やはり防ぎきれるものではない。だから、いささかの罪悪も黙許することはできないわけである』とこんな風に考えて、自説を主張するのであった。
「衰弱が加わって、嗜眠《しみん》状態に陥っておいでなさる」とパイーシイ神父はアリョーシャを祝福した後、小声で彼に伝えた。「もう、眼をおさましするのもむずかしいくらいだ、もっとも、そんな必要もないけれど、さきほど五分間ばかり目をさまされて、自分の祝福を皆に伝えてくれと頼まれ、また皆には、夜の祈祷《きとう》の際、自分のために祈ってもらって欲しいとの御伝言であった。明日はも一度、ぜひ聖餐《せいさん》を受けたいと申しておられる。それから、アレクセイ、おまえのことを思い出されて、もう出て行ったかと尋ねられたから、今、町へ行っておりますと申し上げたところ、『わしもそうさせるために祝福してやったのだ、あれのいるべき場所はあすこだ、当分はここにおらんほうがよい』と、こんな風におまえのことを言われたぞ。それがいかにも愛情に溢《あふ》れた、心配らしい言い方であった。おまえは自分がどんなに心にかけられているかわかっているかな? けれど、長老がおまえの一身上について、当分のあいだ浮き世へ出ておれと言われたのは、どういうわけであろうな? おおかたおまえの運命について、何か見抜いておられることがあってのことだろう? しかし、アレクセイ、たとえおまえが俗世間へ帰るとしても、それは長老がおまえに授けられた一つの修行と見るべきで、けっして軽薄な無分別や浮き世の歓楽のためではないぞ、このことをよく胸に刻んでおくがよい……」
 パイーシイ神父は出て行った、長老は、たとえ一日二日は生き延びるとしても、所詮《しょせん》瀕死《ひんし》の状態にあるのだということはアリョーシャにとって、もはや疑いもない事実である。アリョーシャは父をはじめとしてホフラーコワ母娘や、兄や、カテリーナ・イワーノヴナなどと面会の約束はしてあるけれど、明日はけっして修道院の外へ一歩も出ないで、長老の臨終までそのかたわらに付き添っていようと心に固く決心した。彼の胸は愛情に燃え立って来た。そして、彼は、世界じゅうの誰にもまして愛している人が死の床に打ち臥《ふ》しているのを修道院に残して町へ出て、たとえしばらくでもその人を忘れることのできた自分を深く責めないではいられなかった。彼は長老の寝室へはいって行くと、そのままひざまずいて、眠れる人に向かって額が地につくほどのお辞儀をした。長老はほとんど聞き取れぬくらい穏かに呼吸しながら、静かに、身動きもせず眠っていた。その顔はあくまで平穏であった。
 長老が今朝ほど客を迎えた次の間へ引っ返すと、アリョーシャはただ長靴を脱いだだけで、ほとんど着換えもしないで、固い革張りの幅の狭い長椅子の上へ横になった。彼はもう久しいあいだ毎晩枕だけ持って来て、この椅子の上で寝ることに決めていた。今朝、父が大きな声でどなった例の蒲団は、もう長らく敷くのを忘れてしまっていた。彼はただ自分の法衣を脱いで、それを上掛けの代わりに体に掛けただけであった。しかし寝につく前に、彼はひざまずいて長いあいだ祈祷をした。その熱心な祈祷の中で彼が神に願ったのは、自分の惑いを解いてもらうことではなく、いつも神に対する賛美嘆称の後で、自分の魂を訪れた喜ばしい歓喜の情を渇仰《かつごう》したばかりである。彼の就寝の前の祈祷は、たいてい神に対する賛美のみで満たされていた。そうした歓喜の情はいつも軽い安らかな眠りを彼にもたらすのであった。今もこうして祈祷をしているうちに、ふと、さきほどカテリーナ・イワーノヴナのところの女中が追っかけて来て彼に渡したばら色の小さな封筒がポケットにあるのに気がついた。彼はちょっと当惑したけれど、とにかく祈祷をすました。それから少し躊躇《ちゅうちょ》したのち封を開いた。その中にはリーズと署した自分あての手紙がはいっていた――それは、今朝、長老の前で彼をからかった、あのホプラーコフ夫人の若い娘からよこしたものであった。
『アレクセイ・フョードロヴィッチ』と彼女は書いていた。『わたしはこの手紙を誰にも内緒で、お母様にさえ秘密にして書いています、そして、それがどんなに悪いことかってこともわかっています。けれど、わたしは自分の心の中に生まれ出たことをあなたに申し上げないでは、もう生きていられません、このことはわたしたち二人よりほかには、(当分のあいだ)、誰にも知らしてはならないのです、けれど、わたしの申し上げたいと思うことを、どんな風にあなたにお話ししたらいいのでしょうね、紙は顔を赤らめないと申しますが、それは嘘ですわ、本当のことを申しますが紙まで今のわたしと同じように、まっかな顔をしているのですもの、おなつかしいアリョーシャ、わたしはあなたを愛しています、まだ子供の時分から――あなたが今とはまるで別人のようでいらして、モスクワ時代から愛していましたの、そして一生涯あなたを愛し続けていきますわ、わたしはあなたと一つになって、年とったら御いっしよにこの世を終わりたいと、自分の心の中であなたを選んだのでございます、けれど、必ずお寺を出てくださるという条件つきなのですよ、わたしたちの年のことでしたら、それは法律に定められた年になるまで待ちましょう、そのころまでには、わたしもきっと丈夫になって、一人で歩いたり、ダンスをしたりできるようになりますわ、そんなことは言うまでもないことでございます』
『わたしがどんなに考えたかおわかりになってくださるでしょう、けれど、ただ一つ、どうしても考えつかないことがございますの、それは、この手紙をお読みになる時、わたしのことをどんな風にお思いになるだろうかということです、わたしはいつも笑ったり、ふざけたりばかりしてるんですもの、今朝だってあなたをすっかり怒らしてしまいましたでしょう……けれど誓って申し上げますわ、わたし今ペンを取る前に聖母様の御像にお祈りをしましたのよ、そして今でもやっぱりお祈りをしていますの、ほんとにもう泣きださないばかりでございますわ』
『わたしの秘密はもうあなたのお手に握られてしまいましたわね、明日あなたがいらしてくださるとき、わたしどんな顔をしてお目にかかったらいいのかわかりませんわ、ああ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしがあなたのお顔を眺めているあいだに、また我慢ができなくなって、今朝とおんなじに、ばかみたいに笑いだしたりしたら、どういたしましょうね? きっと、あなたはわたしをいやなひやかしやだとお思いになって、この手紙だって本当にしてはくださらないかもしれませんわね、ですから、もしわたしを可哀そうだとお思いになったら、明日わたしのところへはいっていらっしゃるとき、お願いですからあまりまっすぐにわたしの顔を御覧にならないようにしてください、わたしの眼があなたのお眼に出会ったら、きっと笑いだすに違いないんですから、だって、あなたは、あんな長い着物を着てらっしゃるんですもの……わたし今でも、それを思うと体じゅうがぞっとしますわ、ですから、はいっていらしても、しばらくはわたしの顔をちっとも御覧にならないで、お母様の方か、窓の方を御覧になってくださいましな……』
『とうとう、わたしあなたに恋ぶみを書いてしまいましたわ、まあ、ほんとになんということをしてしまったのでしょう! アリョーシャ、わたしを軽蔑《けいべつ》しないでちょうだい、もしあたしたいへん悪いことをして、あなたを苦しめているようでしたら、どうぞお許しくださいまし、わたしのたぶん永久に滅びてしまった名誉の秘密は、今あなたの手の中にあるのです』
『わたし今日はきっと泣きますわ、さよなら、恐ろしい[#「恐ろしい」に傍点]再会の時まで、リーズ』
『二伸、アリョーシャ、ただね、きっと、きっと、きっといらしてちょうだいね! リーズ』
 アリョーシャは驚愕《きょうがく》をもって読み終わった。そしてもう一度読み返してしばらく考えていたが、不意に静かな楽しそうなほほえみを漏らした。彼はぎくりと身震いをした。そのほほえみが彼には罪悪のように思われたのである。しかし一瞬の後またもや同じように静かな、幸福そうなほほえみを浮かべるのであった。彼はゆるゆる手紙を封筒へ納めてから、十字を切って、横になった。すると胸さわぎは急にぱったりとやんでしまった。『主よ、さきほどの人たちすべてをあわれみたまえ、あの不幸な、荒れ狂う人たちを救いたまえ、あの人たちを正しい道に導きたまえ、すべての道はあなたの御手のうちにあります。あなたの道をもってあの人たちを救いたまえ、主よ、あなたは愛でいらせられます、あの人たちすべてに喜びを授けたまわらんことを!』アリョーシャはこうつぶやきながら十字を切ると、おだやかな眠りにおちていくのであった。
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 第四篇 破裂


   一 フェラポント長老

 朝まだき、まだ夜のあけないうちにアリョーシャは起こされた。長老は眼をさますと、床を離れて安楽椅子にかけたいと言いだしたが、しかも非常な衰えを感じていた。意識は全く確かで、顔にはかなり疲労の色が浮かんでいたが、晴れ晴れして、ほとんど喜ばしそうにさえもうかがわれた。眼つきは楽しげに愛想よく人をさし招くかのようであった。
「ひょっとしたら、今日一日の寿命がないのか
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