ゥなすったのに……」
「違いますのよ、お嬢様、あたし、なんにもお約束なんかしませんわ」と、やはり嬉しそうな無邪気な表情をしたまま、静かにすらすらとグルーシェンカがさえぎった、「そうらね、これでおわかりになったでしょう、お嬢様。あたし、あなたに比べたら、こんなに恥知らずな、気ままな女なんですからね、あたし、こうしようと思うとすぐそのとおりにしてしまう性分なんですの。さっきはほんとに何かお約束をしたかもしれませんけど、今また、ようく考えてみますと、急にまた、あの人が好きになるかもしれませんわ、あのミーチャが、――前にだって、あの人が好きになったことがありますのよ、まる一時間ぐらい気に入ってたことがありますわ。だから、これから帰って行って、今日から家に落ち着いてしまいなさいって、あの人に言わないとも限りませんわ……ね、あたしこんなに気の変わりやすい女ですの……」
「さっきおっしゃったことは……なんだかまるきり違っていましたわ……」カテリーナ・イワーノヴナはやっとこれだけのことをつぶやいた。
「ええ、さっきはね! あたし気の弱いばかな女ですから、あの人がこのあたしのために、どんな苦労をしたかと考えてみただけでもね! ほんとに家へ帰ってから、急にあの人が気の毒にでもなったら――その時どうしようかしら?」
「わたし、ほんとに思いもかけませんでしたわ……」
「まあ、ほんとにお嬢様は、あたしなんかと比べると、なんてお優しくて、気高いおかたでしょうね! たぶんもう、こういう気性がおわかりになっては、あたしのようなばか女には愛想をおつかしになったでしょうね。お嬢様、どうぞその可愛らしいお手をお貸しくださいまし」彼女はしとやかにこう言って、うやうやしげにカテリーナ・イワーノヴナの手を取った、「ねえ、お嬢様、あたしこうしてあなたのお手を取って、先刻あたしにしてくだすったとおんなじように接吻しますわ、あなたはあたしに三度接吻してくださいましたけれど、あたしなら三百ぺんも接吻しなければ勘定が済みませんわ。さあそれだけはしなくちゃなりませんわ、それ以上は神様のおぼしめしにもあることで、事と次第によっては、あたし、すっかりあなたの奴隷になって、なんでもお気に召すとおりにするかもしれませんわ、相談や約束なんかしないで、神様がお決めになったとおりにいたしましょうね。まあ、このお手、なんて可愛いお手でしょう? ほんとにお可愛い、おきれいな、とてもたまらないようなお嬢様!」
彼女は接吻の『勘定を済ます』という変な目的で、その手をそっと自分の唇へ持って行った。カテリーナ・イワーノヴナはけっしてその手を引っこめはしなかった。彼女はおずおずした希望をいだきながら、あの奇妙な言い回しではあるが、『奴隷のように』望みのままになるという、グルーシェンカの、最後の約束に耳を傾けたのであった。彼女は一心に相手の眼を見つめていた。その眼の中には相も変わらず、信じやすそうな、単純な表情と、朗らかな喜びの色がうかがわれた……。『この女はあまりに無邪気すぎるのかもしれない』という希望がカテリーナ・イワーノヴナの心をかすめた。そのあいだにグルーシェンカは『可愛いお手』に恍惚《こうこつ》となっているような様子で、そろそろとそれを唇のほうへ持って行った。しかも、唇のすぐそばまで持って行くと、不意に何か思案でもするように、二、三秒のあいだ、その手をそのままささえていた。
「ねえ、お嬢様」と不意に彼女は、恐ろしく物柔らかな甘ったるい声をひっぱるように言った、「ねえ、あたし、せっかくあなたのお手をいただきましたけれど、接吻はやめにしようと思いますわ」こう言って、彼女は、さもおかしそうに笑いだした。
「御随意に……いったいあなた、どうなすって?」とカテリーナ・イワーノヴナは不意にぶるっと身震いをした。
「じゃね、よく覚えておいてくださいな、あなたはあたしの手に接吻なさいましたけれど、あたしはしなかったってことをね」ふっと、彼女の眼の中で何やらきらりと光ったものがあった。彼女は恐ろしく執拗《しつよう》にカテリーナ・イワーノヴナの顔を見つめた。
「失礼な!」と不意に何か合点がいったらしく、カテリーナ・イワーノヴナはこう口走ると、かっとなって席を飛び上がった。グルーシェンカもゆっくりと立ち上がった。
「それでは、あたしミーチャにもさっそく電話してやりますわ、――あなたはあたしの手を接吻なさいましたけど、あたしのほうはまねもしなかったって、さぞあの人が大笑いすることでしょうよ!」
「けがらわしい、出ておいで!」
「まあ、恥ずかしげもなく、お嬢様、なんて恥ずかしいことでしょう、あなたのお身分でそんなはしたない口をおききになるなんて」
「出てお行き、売女《ばいた》!」とカテリーナ・イワーノヴナはわめき立てた。すっかりゆがんでしまった彼女の顔の筋という筋が震えていた。
「売女なら売女でもいいわよ、あなただって生娘《きむすめ》のくせに、お金欲しさに夕方になると色男のところへいらっしゃったじゃありませんか、その器量を売りにいらっしゃったじゃありませんか、ちゃんと知ってますよ」
カテリーナ・イワーノヴナは一声高く叫ぶと、相手に飛びかかって行こうとしたが、アリョーシャが一生懸命にそれを抱き止めた。
「一歩も出ちゃいけません! ひと言もおっしゃってはいけません! 何も相手になさいますな、この人はすぐに帰りますよ、今すぐ帰って行きますよ!」
この瞬間、カテリーナ・イワノーヴナの二人の伯母と、それに続いて小間使いが、叫び声を聞きつけて、部屋へ駆けこんで来た。皆は彼女のほうへ駆け寄った。
「じゃ、帰りますわ」グルーシェンカは長椅子から外套を取りながらこう言った、「アリョーシャ、あたしを宅まで送ってちょうだいな!」
「帰ってください、すぐに帰ってください、お願いです!」アリョーシャは哀願するように両手を合わせた。
「可愛いいアリョーシェンカ、送ってってちょうだいよ! あたし、道々あんたにとてもいいお話を一つ聞かしてあげるわ! 今のはね、あたし、あんたのために、わざと一芝居うって見せたのよ、送ってってちょうだいな、あとで、ああよかったと思うに決まってるのだから」
アリョーシャは両の手をもみ合わせながら、くるりと横を向いた。グルーシェンカは声を立てて笑いながら、その家を飛び出してしまった。
カテリーナ・イワーノヴナはヒステリイの発作に襲われた。彼女はしゃくりあげて泣きながら、時おり、痙攣《けいれん》のために息をつまらせた。一同は彼女を取りまいて、さわぎ立てた。
「だから、わたしが言わないことじゃないのよ」と年上のほうの伯母が言った、「そんなむやみなことはしないようにと、あれほど止めたんだのに、……あんたがあまり向こう見ずなものだから!……ほんとになんということをするんでしょうね! あんたは、ああいう女たちのことをなんにも知らないけれど、世間ではあれは人間のくずだって言ってますよ、あんまりあんたはわがままが過ぎるんですよ!」
「あれは虎だわ!」とカテリーナ・イワーノヴナが声を振り絞って叫んだ、「なぜあなたはわたしを引き止めたんです? アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたしあの女を思うさまひっぱたいてやったのに、ひっぱたいて!」
彼女はアリョーシャの前で、自分を押えつけることができなかった。あるいは抑制しようとしなかったのかもしれない。
「あんなやつは笞《むち》でひっぱたいてやってもあきたりないわ、処刑台《だい》へのせて、首切り役を使って、大ぜいの前で……!」
アリョーシャは扉のほうへ後ずさりした。
「だけど、まあ!」と突然、彼女は手を打って叫んだ、「あの人が! ほんとにあの人がそれほど恥知らずな、不人情な人間になりさがったものだろうか? だって、あの人は、あの恐ろしい、永久にのろってものろい足りない、あの日の出来事を話して聞かせたんだもの! 『お嬢様、あなただってその器量を売りにいらしたじゃあありませんか』だって! あの女は知ってるんだわ! アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたの兄さんは悪党ですよ」
アリョーシャは何か言いたかったが、言うべきことばが見いだせなかった。彼の胸は痛いほど締めつけられた。
「帰ってください、アレクセイ・フョードロヴィッチ! わたしは恥ずかしい、わたしは恐ろしい! あす……後生ですから、いらしてちょうだいね、どうぞわたしを悪く思わないでね、許してちょうだい、わたしはまだ、自分で自分をどうしていいのかわからないのですから!」
アリョーシャはよろめくようにしながら往来へ出た。彼女と同じように彼も泣きだしたくなった。と、不意に後ろから女中が追いかけて来た。
「お嬢様がこれをお渡しするのをお忘れになりましたの、ホフラーコワさまからおことづけの手紙でございますの、もうお昼御飯の時からおあずかりしてありましたので」
アリョーシャはばら色の小さい封筒を機械的に受け取ると、ほとんど無意識にポケットへ押しこんだ。
一一 さらに一つの滅びたる名誉
町から修道院までは一|露里《エルスター》とほんの少ししかなかった。この時刻では人通りも途絶えた道を、アリョーシャは急ぎ足に歩いて行った。もうほとんど後になって、三十歩前方の物のあや目もわからなかった。ちょうど道の中ほどに四つ辻があって、その四つ辻のひともと柳の下に何か人影らしいものがちらついた。アリョーシャが四つ辻へかかると同時に、その人影がふっとその場を離れて、彼の方へ飛びかかって来た。そしてたけだけしい声でわめいた、「財布か、命か!」
「あ、あなたはミーチャ兄さんですね!」ひどく震え上がったアリョーシャは驚いてこう言った。
「は、は、は! 思いがけなかったかい? おれはどこでおまえを待っていようかと考えてみたんだよ、あの女の家のそばにしようかな? いや、あすこからは、道が三つにわかれているから、もしかするとおまえを見のがすかもしれない、そこで、結局、ここで待ち受けることに決めたんだよ。だって、どうせ修道院へ行くのにはもう他に道はないから、おまえはきっとここを通るだろうと思ってさ。さあ、ほんとのことをぶちまけてくれ、おれを油虫みたいにたたきつぶしてくれ……それはそうと、おまえはどうかしたのかい?」「なんでもありませんよ、兄さん……僕ちょっとびっくりしただけです、ああ、だけどドミトリイ兄さん! さっきお父さんの血を流したばかりなのに(そう言って、アリョーシャは泣きだした。もうずっと前から泣きだしそうになっていたのであるが、今急に心の中で何かぷつりとちぎれたような気がしたのである)。兄さんは危うくお父さんを殺すような目に会わして……のろいのことばまて吐いて来たくせに……もう今は……こんなとこで冗談なんか言うんですか……『財布か命か』なんて!」
「それがどうしたというんだい? いけないっていうのかい? おれの分際に不釣り合いだというのかい?」
「いいえ、そうじゃないけど……僕はその……」
「まあ、よせ、この夜の景色を見ろよ、なんという暗い晩だろう! 雲はどうだい、それになんという風だ! おれはこの柳の下に隠れて、おまえを待っているうちに、ふいと考えたんだよ(正真正銘の話だよ!)、この期におよんで、おれは何をくよくよして、何をいったい待っているんだ? ここに柳の木はあるし、ハンカチもあれば襯衣《はだぎ》もあるから、おれは繩《なわ》をすぐになうことができる、おまけにズボン吊《つ》りがあるぞ――何もこのうえ、世の中の荷やっかいになって、この卑劣な体で大地の神聖をけがしていることはない! ってな、すると、そこへおまえの足音が聞こえて来たのさ、――ありがたいことに! 何かが急に、おれの上へ飛んで来たような気がしたのだ。そうだ、まだおれの愛している人間があるじゃないか、そら、あれがそうなんだ、あの人間だ、あれこそ世界じゅうでおれのいちばん好きな、たった一人の可愛い弟じゃないか! そう思うと、おれはその瞬間に、おまえが可愛くて可愛くてたまらなくなったのだ。え
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