「唇の輪郭とには、いかにも自分の兄が夢中になって打ちこみそうな、それでいて、長くは愛し続けられなさそうな、あるものが感じられた。この訪問のあとで、ドミトリイが自分の許嫁《いいなずけ》を見てどんな印象を受けたか、腹蔵なく言ってくれと、しつこく彼に尋ねたとき、アリョーシャはこの感想をほとんどむきつけに言ってしまった。
「兄さんはあの女と結婚すれば、幸福になるでしょうけれど……しかし、平和な幸福ではないかもしれませんよ」
「そのとおりなんだよ、弟、ああいう女はいつまでたってもあのとおりなんだよ、ああいう風な女は、けして運を天にまかせるということがないのさ、じゃあ、おまえは、おれがとても永久にあの女を愛しきれまいと思うんだな?」
「そうじゃありません、たぶん、兄さんは永久に愛するでしょう、けれど、あの人といっしょになっても、始終は幸福でいられないかもしれませんよ……」
 アリョーシャはそのときこんな意見を述べながら、まっかになった。そしてつい兄の頼みにつりこまれて、こんな『ばかげた』意見を述べたのを、自分ながらいまいましく思った。なぜならば、それを口外すると同時に、自分の意見がわれながら恐ろしくばかげたものに思われたからである。それに自分などが偉そうに、婦人についての意見を述べ立てたことを恥ずかしくも思った。そういうことがあっただけに、いま自分のほうへ駆け出して来たカテリーナ・イワーノヴナを一目見た時には、もしかしたら、あのときの考えはまるで間違っていたかもしれないと思ったほど、彼の驚きはなおさら大きかったのである。今の彼女の顔には、偽りならぬ率直な善良さと、一本気な熱しやすい真心とが輝いていた。前にあれほどアリョーシャを驚かした『誇りと驕慢《きょうまん》』が、今はただ勇敢で高潔な精力と、何か明朗な力強い自信となって現われているのであった。アリョーシャは彼女を一目見るなり、ひと言その声を聞くなり、彼女の愛する男とのあいだの悲劇的関係が、彼女にとって少しも秘密でないばかりか、彼女はもういっさいのことを、何から何まで知り抜いているのだろうと直感した。とはいえ、それにもかかわらず、彼女の顔には未来に対する信仰と光明が満ち溢《あふ》れていた。アリョーシャは急に、自分が彼女に対して重大な故意の罪を犯しているような気がし始めた。彼はたちまちにして征服せられ、引きつけられてしまったのである。それはともかく、最初のことばを聞いただけで、彼女が何かしら激しい興奮、おそらく彼女としては非常に法外な、ほとんど有頂天に近い興奮状態にあることを見てとったのである。
「わたしがこんなにあなたをお待ちしていましたのは、今本当のことが伺えるのは、ただあなたお一人きりだからですの、ほかには誰もそんなかたはありませんもの!」
「僕がまいりましたのは……」と、アリョーシャは狼狽《ろうばい》しながら、口ごもった。「僕は……兄の使いでまいったのです……」
「兄さんがおよこしなすったんですって、まあ、わたしもそうだろうと思いましたわ、今はわたし、もうなんでも知ってますのよ、何もかも!」と、カテリーナ・イワーノヴナは急に眼を輝かしながら叫んだ。「ちょっとお待ちになってね、アレクセイ・フョードロヴィッチ、わたし、どういうわけで、そんなにあなたをお待ちしていたかってことを、あらかじめお話ししておきますわ、もしかすると、わたしのほうがあなたよりずっとずっとたくさん、いろんなことを知っているかもしれませんわ。わたしがあなたからお伺いしたいのは事実の報告ではございませんの、わたしの知りたいと思いますのは、あなた御自身が最近あの人からお受けになった印象なんですの。どうか、それをありのままに、飾りっ気なしに、話してお聞かせくださいませんか。ぶしつけなお話だってかまいません。(ええ、ええ、どんなにぶしつけなことだって結構でごさいますとも
)いったいあなたは、今のあの人をどんな風に御覧になっていますの? そして、今日あなたがお会いになってから後の、あの人の様子はどんな風でございまして? これはきっと、わたしが自分であの人と話し合うよりか、いいに違いないと思いますわ。だってあの人はもう、わたしのところへは来ないつもりでいるんですもの、ね、わたしがあなたにどんなことを望んでいるか、これでおわかりになったでしょう? さあ今度は、あの人が何の用であなたをお使いによこしなすったのか(わたしきっとあなたをお使いによこしなさるだろうと思ってましたわ!)――どうぞ、ありのままに、いちばん肝心なところを聞かせてくださいませ!……」
「兄はあなたに……よろしく申し上げてくれ、そしてもう二度とこちらへ足踏みをしませんって……で、あなたによろしく申し上げてくれって言いました」
「よろしくって! あの人がそう言ったんですのね、そのとおりの言い回しで?」
「そうですよ」
「もしかしたら、ひょいと何の気なしにそんなことを言ったのかもしれませんわね、間違って、言わなければならぬことばでなしに、ひょんなことが口から出たのかもしれませんのね?」
「いいえ、兄はこの『よろしく』ということばを、ぜひお伝えしてくれって言いつけたのです、忘れないようにお伝えしてくれって、三度も念を押したのです」
 カテリーナ・イワーノヴナはかっと赤くなった。
「アレクセイ・フョードロヴィッチ、どうぞわたしを助けてください。今こそ、ほんとにあなたのお力添えが必要なのです。わたし、自分の思っていることを申してみますから、あなたはそれについて、わたしの考えが正しいかどうか、それだけをおっしゃってくださいませんか、ね。ようござんすか。もしあの人が何気なしに、よろしく言ってくれって、あなたに言いつけたのでしたら、――つまり特別このことばに力を入れて、このことばをぜひ伝えるように念を押さなかったとしますと、もうそれでおしまいなんです……何もかもがおしまいなのです!……けれどあの人が特別このことばに力を入れて、ことさらその『よろしく』を忘れないで、わたしに伝えるように念を押したのでしたら、きっとあの人は興奮していらしたということになりますわ、もしかしたら、前後を忘却していらしたのかもしれませんわね。きっと、決心はしながらも、自分で自分の決心を恐れていらっしゃるのです! しっかりした確かな足どりでわたしから離れて行ったのではなくって、急な坂を駆け下りたのです。そのことばに力を入れたのは、ただの空威張りだったということにはならないでしょうか……」
「そうですよ、そうですよ!」とアリョーシャは熱心に相づちを打った。「僕自身にも今はそう思われるのです」
「で、もしそうなのでしたら、あの人はまだ滅びてはいません! ただ絶望しているだけですから、わたしはあの人を救うことができます。ね、それはそうと、あの人は何かお金のことを、三千ルーブルのお金のことをあなたにお話ししませんでして?」
「話したどころじゃありませんよ、きっとそのことをいちばんひどく兄は苦に病んでいるのです。兄はもうこうなっては、名誉も何も失ってしまったのだから、どちらにしたって同じことだと言っていました」とアリョーシャは躍起になって叫んだ。そして彼は、自分の心に一縷《いちる》の望みがわきあがってくるのを覚えて、ほんとに兄のために救いの道が開けたのかもしれないというような気がした。「だって、あなたはいったい……あの金のことを御存じなんですか?」と言い足したが、急にことばを打ち切った。
「ずっと前から知ってますわ、はっきり知ってますわ。モスクワへ電報で問い合わせて、あのお金の届いていないってことは、とうの昔に知っていますわ。あの人はお金なんか送らなかったのです、けれどわたしは黙っていましたの。あの人に、お金の要《い》ったこと、そして今でも要るってことは先週わたし聞きましたの……それについて、わたし、たった一つ目当てにしていることがあります、それは、あの人が、結局自分は誰の手へ帰ったらいいか、また誰が自分にいちばん忠実な親友かっていうことを、悟ってくれるようにしむけることでございます。ところがあの人は、わたしがそのいちばん忠実な友だちだってことを、信じてくれないのです。わたしというものを見抜こうとはしないで、ただ女として私を眺めているのです。わたしは、あの三千ルーブルの使いこみを、あの人に恥だなどと思わせないようにするには、どうしたらいいのだろうか? と、そのことばかり思って、この一週間のあいだ、ほんとに心配で心配でたまりませんでしたわ。そりゃあね、他人に対してや、自分自身に対して恥じるのはしかたがありませんけれど、わたしに対して恥じることだけはさせたくありませんの。だって、あの人も神様にはちっとも恥じないで、何もかも打ち明けているじゃありませんか。それだのに、わたしがあの人のためになら、どんなしんぼうだってするってことを、どうして今まで知ってくれないのでしょう? どうして、どうして、あの人にはわたしの本心がわからないのでしょう? あんなことまであったあとだのに、どうしてわたしの心を知らずにいられるんでしょうね? わたしはどこまでもあの人を助けたいと思います、わたしがあの人の許嫁だってことを忘れてしまったってかまいません! それだのに、あの人は、わたしに対する身の潔白なんかを心配してるんですもの! だって、あの人は、ねえ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、あなたには何も恐れないで打ち明けたのじゃありませんか、どうして、わたしには、今になってもそれだけのことがしてもらえないんでしょうねえ?」
 彼女は涙ながらこの終わりのことばを言った。涙は止めどなくその眼からほうり落ちるのであった。
「僕はあなたに、たった今、兄と父とのあいだに起こった出来事を、お話ししなければなりません」とアリョーシャのほうも、やはり声を震わせながら言った。そして彼は先刻の騒動を残らず物語った。金の無心にやられたこと、そこへ兄が飛びこんで来て父をなぐったこと、そのあとで兄が特別にもう一度『よろしく』ということづてに念を押したことなどを物語ったのである……「兄さんはそれからあの女《ひと》のところへ行きました……」と彼は低い声でつけ足した。
「まあ、あなたはわたしがあの女《かた》を大目に見てゆけないとでも思ってらっしゃるの? あの人もやはり、そう思ってるのでしょうか? けれど、兄さんはあの女《かた》と結婚なんかしませんよ。」不意に彼女は神経的に笑いだした。「だって、カラマゾフが、いつまでもあんな情欲に燃えることができるものですか! ええ、あれは情欲というもので、けっして愛じゃありません、兄さんはけっして結婚なんかしませんよ、だってあの女《かた》がお嫁になりませんもの……」と、突然またカテリーナ・イワーノヴナは奇妙な薄笑いを漏らした。
「でも、兄は結婚するかもしれませんよ」アリョーシャは眼を伏せたまま、悲しげな調子で言った。
「いいえ結婚なんかしませんったら! あの娘さんはほんとに天使のような女《かた》ですよ、あなたはそれを御存じですの? あなたそれを御存じですの?」と、不意にカテリーナ・イワーノヴナは異常に熱くなって叫んだ。「あの娘さんは、ほんとに気まぐれな中にも、とりわけ気まぐれな女《かた》ですよ、わたしあの女《かた》がずいぶん誘惑的な人だってことも知っていますが、またあの人がほんとに親切で、しっかりしていて、しかも高尚な娘さんだということも知っていますわ。どうしてあなたそんな眼をして、わたしを御覧になるの? たぶんわたしの申しあげることにびっくりなすったのでしょう、たぶんこのわたしのことばを本当になさらないのでしょう? アグラフェーナ・アレクサンドロヴナ!」と、突然、彼女は次の部屋の方を向いて、誰かに呼びかけた。「こちらへいらっしゃいな、ここにいらっしゃるのは、お友だちのアリョーシャなのよ、もうわたしたちのことはすっかり知ってらっしゃるんですから、さあこちらへ出て来て、御挨拶をなさいな!」
「あたしカーテンの陰で、あなたが呼んでくださるのを、
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