悔《ざんげ》にでも行こうものなら、とても心配でたまるまいと思うくらいなんだよ、第一あの人がどんな話を始めると思うかい……一昨年《おととし》あの人がわしらを茶の会へ呼んだことがある、リキュールつきのさ、リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだよ、そのときにだよ、ひょんな昔話をやりだしたので、わしらはすっかり腹の皮を縒《よ》ってしまったわい……別しておもしろかったのは、あの人が一人の衰弱した女をなおした話だ、『足さえ痛くなかったら、わしがひとつ踊りを見せて進ぜるのだが』と言うのさ、それがまたなんの踊りだと思うね? 『わしも若盛りにはずいぶんいろんなまねをしてきましたわい』だとよ、それに、あの人はジェミードフという商人から、六万ルーブルも巻きあげたことがあるんだよ」
「何、盗ったのですか?」
「その商人があの人を善人だと思って、『どうぞ、これを預かってください、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あの人が預かったんだよ、ところが後になって『あれはおまえさんがお寺へ寄進なさったのじゃ』と、こうだ、わしがあの人に、おまえさんは悪党だと言ってやったら、わしは悪党じゃない、心が広いのじゃとおいでなすった……、いや、待てよ、これはあの人の話じゃないて……ああ、別の男のことだったよ、わしは、つい他の男の話と混同してしまってな……気がつかなかったのだよ。さあ、もう一杯だけでたくさんだ、イワン、びんをかたづけてくれ、それはそうと、わしがあんな無茶なことを言っていたのに、なんでおまえは止めてくれなかったのだ……それは嘘だとなぜ言ってくれんのじゃ、イワン?」
「自分でおやめになると思ったものですからね」
「嘘をつけ、おまえはわしが憎くて止めてくれなんだのだ、ただ憎いからなんだ、おまえはわしをばかにしておるのだ、のこのこわしのところへやって来て、わしの家でわしをばかにしておるのだ」
「だから僕はもう行きますよ、お父さんはコニャクに飲まれてしまったのですね」
「わしはおまえに、どうか後生だから、チェルマーシニャへ……一日か二日でよいから、行って来てくれと、あれほど頼んでいるのに、おまえは出かけてくれんじゃないか」
「そんなにおっしゃるなら、明日にでも出かけますよ」
「なんの行くものか、おまえはここにおって、わしの見張りがしていたいのだ、そうだとも、それだから行こうとしないのだろ、この意地悪めが!」
 老人は容易に静まらなかった。彼はもう、すっかり酔いが回って、それまでどんなにおとなしかった酒飲みでも、急にふてくされて威張りださなければ承知しなくなるといった、そんな程度にまで達していたのである。
「何をおまえはそう、わしのほうばかりにらむのだ? それはなんという眼つきだ? おまえの眼はわしをにらみながら、『だらしのない酔っ払いの面《つら》だ』と言っておる。その眼つきはうさん臭いぞ、どうも、人を小ばかにした眼つきだ……おまえは何か胸に一物あってやって来たんだな、ほら、アリョーシカの眼つきを見い、晴れ晴れしとるじゃないか、アリョーシカはわしをばかにはしちゃおらんぞ、な、アリョーシカ、イワンを好くことはないぞ」
「兄さんをそんなに怒らないでください! 兄さんを侮辱するのをやめてください」とアリョーシャは語気を強めて言った。
「うん、なあに、わしもな、よしよし、ああ、頭が痛いわい、イワン、びんをかたづけてくれんか、もう三度も同じことを言うぞ」彼はすこし考え込んだが、不意に長く引っぱったようなずるそうな笑い声を立てながら、「なあ、イワン、こんな老いぼれの死にぞこないに腹を立てんでくれよ、わしはおまえに好かれんのはよう知っておる、だがまあ、怒らないでくれ、わしはとても人に好かれるという柄じゃないわい、ところで、どうかチェルマーシニャへ出かけてくれ、わしも行くからな、土産《みやげ》を持って行くぞ、そしてあっちで一人いい娘っ子を見せてやろう。もうずっと前から見つけてあるんだよ、今でもはだしで跳ね回っとるだろうて、はだしの娘だからとて驚くことはない、いや、ばかにしたものではないぞ――なかなかの上玉だ!……」
 彼はそう言って、自分の手をちゅっと吸った。
「わしにとってはな」と、彼は自分の好きな話題に移ると同時に、まるで一時に酔いがさめてしまったように、ひどく元気づいてきた、「わしはな……こんなことを言っても、おまえらのような子豚同然なねんねにはわかるまいが、わしにはな……これまでの一生を通じて、女に会って見苦しいと思うことはなかったよ、これがわしの原則でなあ! 全体、おまえらにこれがわかるかしらん? どうして、どうして、おまえらにこれがわかってなるものか! おまえらの体内には血の代わりに、まだ乳が流れておるのだ、まだ殻《から》が脱けきらんのだ! わしの原則によるとな、どんな女の中にも、けっして他の男には見つからんような、すこぶる、そのおもしろいところが見つけ出せる――だが、自分で見つけ出す眼がなくてはならん、そこが肝心だ! 何よりも手腕だよ! わしにとってはぶきりょうな女というものがないのだ、女であることが、もう興味の半ばをなしておるのだよ、いや、こんなことはおまえたちにわかるはずがないて! 老嬢などという手合いの中からでも世間のばか者どもはどうしてこれに気がつかずに、むざむざ年を食わしてしまったのかと、驚くようなところを捜し出すことがときどきあるのだよ、はだし女やすべたには、初手にまずびっくりさせてやるのだ。これがこういう手合いに取りかかる秘訣《ひけつ》なのさ、おまえは知らないかい? こういう手合いには、まあ、わたしのような卑しい女を、こんな立派な旦那様《だんなさま》が、と思って、はっとして嬉しいやらはずかしいやらで、ぼうとした気持にしてしまわにゃいかんて、いつも召し使いに主人があるように、いつもこんなげす女にれっきとした旦那がついてるなんて、うまくできておるじゃないか、人生の幸福に必要なのは全くこれなんだよ! ああそうだ!……なあアリョーシャ、わしは亡くなったおまえのおふくろさんをいつもびっくりさせてやったものだよ。もっとも、別なやり方ではあったがね、ふだんは、どうして、甘いことばひとつかけることじゃなかったが、ちょうどころあいを見はからってはだしぬけに精一杯ちやほやして、あれの前で膝《ひざ》を突いてはいずり回ったり、あれの足を接吻したりして、あげくの果てには、いつでも、いつでも――ああ、わしはまるでつい今しがたのことのように覚えておるが、きっとあれを笑い転げさしてしまったものだよ、その小さい笑い方が一種特別で、こぼれるような、透き通った、高くないが、神経的なやつさ、あれはそんな笑い方しかしなかったんだよ。そんな時は決まって病気の起こる前で、あくる日はいつも、憑《つ》かれた女になってわめきだす始末だ、だから今の細い笑い声もけっして嬉しさの現われではなく、こちらは一杯食わされたことになるのだけれど、それでもまあ嬉しいには違いないさ、どんなものの中からでも特別な興味を捜し出すっていうのは、つまりこれなんだよ! あるときベリャーフスキイのやつが――そのころそういう金持ちの好男子がこの町に住んでいて、あれをつけ回して、家へもよくやって来おったので――そいつが不意に、何かのはずみで、わしの頬桁《ほおげた》を、それもあれの面前で、なぐりつけやがったのだ、すると、あの牝羊みたいな女が、この頬桁一件のために、このわしをひっぱたきかねないばかりのけんまくで食ってかかったのさ、『あなたは今ぶたれましたね、ぶたれましたね、あんな男に頬ぺたをぶたれるなんて! あなたはわたしをあの男に売り渡そうとしてらっしゃるのでしょう……ほんとに、よくも私の眼の前であなたをぶったものだ! もうもうけっして、二度とわたしのそばへ寄せつけやしない! さあすぐに追っ駆けて行って、あの男に決闘を申しこんでください』……そこでわしは、あれの心を静めるために、お寺へ連れて行って、坊さんがたに御祈祷《ごきとう》をしてもらったよ、しかし、アリョーシャ、神かけてわしはあの『憑かれた女』を侮辱したためしはないよ! いや、一度、たった一度きりある。それはまだ結婚したての、はじめての年だったが、そのころあれは、ひどく祈祷に凝《こ》っていて、聖母のお祭などにはことにやかましくて、その日にはわしまで自分の部屋から書斎へ追っぱらう始末なんだよ、そこでわしはあれの迷信をたたきこわしてやろうと思ったのさ『そら、見ておれよ、これがおまえの聖像だ、そら、こうしてわしがはずすよ、おまえはこれを霊験いやちこなものだなどともったいながってるが、わしがそうら、こうして、おまえの眼の前で唾《つば》をひっかけてやるけれど、なんの罰なんか当たるもんか!』ところが、あれがこちらを見た時の形相といったら、どうも、今にもわしは取り殺されるのじゃないかと思ったよ、しかし、あれは飛び上がって手を打っただけで、急に両手で顔をおおったと思うと、ぶるぶる震えだして、床の上へぶっ倒れると、……そのまま、ぐったりくずおれてしまった……アリョーシャ、アリョーシャ! おまえどうしたんだ!」
 老人はびっくりして飛び上がった、アリョーシャは父が母親のことを話しだしたときから、だんだん顔色を変え始めたのである。顔は赤くなり、眼は輝き、唇はぴくぴく震えだした……酔っ払った老人はそれまでなんの気もつかずに、しきりに口角から泡を飛ばしていたが、この時、急にアリョーシャの身にはなはだ奇怪な事態が生じたのである。というのは、たった今父が話した『憑かれた女』の状態と全く同じものが、思いがけなく彼に現われたのである。アリョーシャはテーブルから不意に飛び上がるなり、今の話の母親そのままに手を打つと同時に両手で顔をおおって、まるで足を払われたように、椅子の上へ倒れかかると、ヒステリカルに痙攣《けいれん》させながら、声は立てないが思いがけなくせき上げる涙に泣きくずれてしまったのである。この恐ろしい、母親そっくりの類似が、ことのほか老人を驚かしたのである。
「イワン! イワン! 早く水を持って来てやれ、まるであれのようだ、寸分たがわずあれにそっくりだ、あの時のこれの母親とおんなじだ! おまえの口から水を吹きかけてやれ、わしも彼女《あれ》にそうしてやったんだよ、これは自分の母親のことで、母親のことで……」と彼はイワンに向かって、しどろもどろにつぶやいた。
「けど、僕のお母さんが、つまりアリョーシャのお母さんだと思うんですが、どうお考えです?」突然、イワンは憤《いきどお》ろしい侮辱の念を制しきれないで、思わずこう口走った。老人はぎらぎら光る彼の眼眸《まなざし》にぎっくりした。しかし、その時、ほんの一瞬間ではあったが、実に奇態なことが起こったのである。というのは老人の頭から、アリョーシャの母がとりもなおさずイワンの母であるという考えが、すっかりぬけ去っていたのである。
「なんでおまえの母親がそうなんだ?」彼は、何がなんだか腑《ふ》に落ちないでつぶやいた、「なんでおまえはそんなことを言うのだ? いったいどの母親のことを言うのだい……あれはなんだよ……やっ、こん畜生! そうだ、あれはおまえの母親だとも! ちえっ、畜生! いや、こいつはついぞない、頭がぼうっとしていたんだよ、勘弁してくれ、わしはまた、なんだよ、その、イワン……へ、へ、へ!」そこで彼はふいと口をつぐんだ。酔余の、引きのばしたような、半ば意味のない、薄笑いがにやりとその顔にひろがった。が、突然この瞬間に玄関で激しい喧嘩《けんか》の音が起こって、狂暴なわめき声がしたと思うと、ぱっと扉があいて、広間へドミトリイ・フョードロヴィッチが躍りこんで来たのである。老人はおびえあがって、イワンのほうへ駆け寄った。
「人殺しだ、人殺しだ! 助けてくれ、た、助けて!」とイワン・フョードロヴィッチのフロックコートの裾《すそ》にしがみつきながら、彼はこう叫び続けた。

   九 淫蕩《いんとう》な人たち

 ドミトリイ・フョードロヴィッチのすぐ後ろ
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