売だといわれた当の婦人のもとへ行って、もし僕があまりうるさく財産の清算を迫るような場合には、あなたのところにある僕の手形をその婦人が引き受けて、訴訟を起こして、僕を監獄へぶちこんでくれるようにと、あなたの名前をもって申し入れたのです。お父さんは僕がこの婦人に対して弱みを持っていると非難されましたが、その実あなたがこの婦人をそそのかして、僕を誘惑させたのじゃありませんか! ええ、あの女は僕に面と向かって話しましたよ。自分で僕にぶちまけて、あなたのことを笑っていましたよ! ところで、あなたが僕を監獄へ入れたがるわけは、あの婦人のことで僕を嫉妬《やっか》んでいるからです。それは、あなた自身があの婦人に変な気持を起こして付きまとい始めたからです。そのこともやはり、あの女が笑いながら話して聞かせたから、僕は百も承知しているのです――いいですか、あなたのことを笑いながら、話して聞かせたんですよ。神父さんがた、このとおりです。放蕩息子《ほうとうむすこ》をとがめ立てる父親がこのとおりの人間なんです! 皆さん、どうか僕の癇癪を許してください。しかし僕は初めからこの狸爺が、ただ不体裁な空騒ぎのために、皆さん御一同をここへ呼んだのだってことは、ちゃんと感づいていたのです。僕はもし親爺が折れて出てくれたら、こちらから許しもし、また許しを乞おうとも思ってやって来たのです。ところが今、親爺は僕一人ならともかく、僕が尊敬のあまりゆえなくしてその名前を口にすることさえはばかっている、純潔無比な処女まではずかしめましたから、こちらもこの男のからくりを皆さんの前へすっかり暴露してやる気になったのです。僕にとっては肉身の父なんですけれど……」
彼はそれ以上続けることができなかった。眼はぎらぎらと光り、息使いも苦しそうだった。しかし僧房の中にいた一座の人々も動乱していた。長老以外の一同の者は不安にかられて席を立った。二人の僧はいかつい眼を瞠《みは》っていたが、それでもなお長老の意見を待っていた。当の長老はまっさおな顔をして坐っていたが、それは興奮のためではなく、病躯の衰弱のせいであった。祈るような微笑がその唇に漂っていた。彼は猛《たけ》り狂う人々を押しとどめようとするもののように、ときどき手を振りかざすのであった。もちろんその身ぶり一つで、この騒ぎを鎮めるのに十分なはずであったが、彼はまだ何かはっきりせぬことがあって、それをよくのみこんでおこうとするかのように、じっと視線を凝《こ》らしながら、何事かを待っていた。とうとうミウーソフは、決定的に自分がはずかしめられ、けがれたような心持を覚えた。
「この醜態の責任はわれわれ一同にあるのです!」と彼は熱した口調で語りだした。「しかし僕はここへ来る道すがらも、まさかこうまでとは思いもよらなかったのです。もっとも、相手が誰だかってことは承知していましたけれど……これは即刻けりをつけなくちゃなりません! 猊下《げいか》、どうぞ信じてください。僕は今ここで暴露された事実の詳細を知らなかったのです。そんなことは本当にしたくなかったのです……全く今が初耳なのです……現在の父親が卑しい稼業の女のことで息子を嫉妬して、当の売女《じごく》とぐるになって息子を牢へ入れようとするなんて……。僕はこんな連中と共にこちらへまいるように仕向けられたのです……だまされたのです、皆さんの前で言明します、僕は誰にも劣らずだまされたのです……」
「ドミトリイ・フョードロヴィッチ」突然、フョードル・パーヴロヴィッチが、何かまるで借物のような声を振り絞った。「もし、おまえさんがわたしの息子でなかったら、わたしは即刻、おまえさんに決闘を申しこむところなんだ……武器は拳銃《ピストル》、距離は三歩……ハンカチを上からかぶせてな……ハンカチを!」彼はじだんだを踏みながら、ことばを結んだ。
こうした、生涯を茶番狂言に終始した嘘つき親爺でも、興奮のあまり実際に身震いをして泣きだすほどの、真に迫った心持になる瞬間があるものである。もっともその瞬間(もしくはほんの一秒もしてから)に、『えい、恥知らずの老いぼれめ、貴様がどんなに『神聖な』怒りだの『神聖な』怒りの瞬間を感じたって、やっぱり貴様は嘘をついているのだ、今でも茶番をやっているのだ』と肚の中でつぶやくのではあるが。
ドミトリイ・フョードロヴィッチは恐ろしく顔をしかめて、なんとも言いようのない侮蔑《ぶべつ》の色を浮かべながら、父をちらっと眺めた。
「僕は……僕は」と彼は妙に静かな、押えつけるような声で言った。「僕は故郷《くに》へ帰ったら、自分の心の天使ともいうべき未来の妻といっしょに、父の老後を慰めようと思っていたのです。ところが来てみると、父は放埒《ほうらつ》きわまる色情狂で、しかも卑劣この上もない茶番師なんです!」
「決闘だ!」と老爺は息を切らしながら、一語一語に唾《つば》をはね飛ばしながら、わめき声をあげた。「ところで、ピョートル・アレクサンドロヴィッチ・ミウーソフさん、今あなたが大胆にも『売女《じごく》』呼ばわりをなされた、あの女ほど、高尚で潔白な――いいですか、潔白なと言っているんですよ――婦人は、あなたの御一門にはおそらく一人もございますまいて! それから、ドミトリイ・フョードロヴィッチ、おまえさんが自分の許婚《いいなずけ》をあの『売女』に見かえたところをみると、つまりおまえさんの許婚でさえ、あの『売女《じごく》』の靴の裏ほどの値打ちもないと、自分で考えたわけだね。あの『売女《じごく》』はこういうえらい女だて!」
「恥ずかしいことです!」と、突然ヨシフ神父が口走った。
「恥ずかしい、そしてけがらわしいことです!」終始、無言でいたカルガーノフが突然、まっかになって、子供っぽい声を震わせながら、大きく興奮のあまりこう叫んだ。
「どうしてこんな男が生きているんだ!」ほとんど猫になるくらい、むしょうに肩をそびやかしながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチは憤怒のために前後を忘れて、うつろなほえるような声で言った。「もうだめだ、なおこのうえ大地を汚させておいてよいとおっしゃるんですか」片手で長老を指しながら、彼は一同を見回した。彼のことばはおだやかで整然としていた。
「聞きましたか、お坊さんがた、父殺しの言うことを聞きましたか!」と、フョードルはだしぬけに今度はヨシフ神父に食ってかかった。「これがあなたの『恥ずかしいこと』に対する返答ですよ! 何がいったい恥ずかしいことです? あの『売女《じごく》』は、あの『卑しい稼業の女』は、こうしてここで行ない澄ましてござるあなたがたより、ずっと神聖かもしれませんよ! 若い時分には周囲の感化で堕落したかもしれないが、その代わりあの女は『多くのものを愛し』ましたよ。多く愛したるものは、キリストもお許しになりましたからな……」
「キリストがお許しになったのは、そのような愛のためではありません……」温順なヨシフ神父もこらえきれないで、思わずこう言った。
「いいや、お坊さんがた、そういう愛のためです。てっきりそういう愛ですとも! あなたがたはここでキャベツの行をして、それでもう上人だと思っていなさる! ※[#「魚+夫」、139−2]《かまつか》を食べてからに、一日に一尾ずつ※[#「魚+夫」、139−3]《かまつか》を食べてからに、※[#「魚+夫」、139−3]《かまつか》で神様が買えると思っていなさるのだ!」
「もう我慢がならん、もう我慢がならん!」そういう声が僧坊の四方からわきあがった。
しかし、醜態の極にまで達したこの場面は、全く思いもかけぬ出来事によって中断された。突然、長老が席を立ったのである。師を思い一同を思う恐怖のために、ほとんど度を失ってしまっていたアリョーシャは、それでもかろうじて、その手をささえることができた。長老はドミトリイ・フョードロヴィッチのほうへと歩き出した。そしてぴったりそばまで近寄ったとき、彼はその前にひざまずいたのである。アリョーシャは長老が力|萎《な》えて倒れたのかと思ったが、そうではなかった。長老は膝をつくと、そのままドミトリイ・フョードロヴィッチの足もとへぬかずいて、額が地につくほど丁寧な、きっぱりした、意識的な礼拝をするのであった。アリョーシャはすっかりめんくらってしまって、長老が立ち上がろうとしたときも、助け起こすことを忘れていたほどである。かすかな微笑がその口辺にわずかに漂っていた。
「御免くだされ! 皆さん、御免くだされ!」と彼は四方に向かって、来客一同に会釈をしながら言った。ドミトリイ・フョードロヴィッチはしばらくのあいだ、雷にでも打たれたように棒立ちになっていた。おれの足もとに礼拝するなんて、いったいどうしたことだろう? が、とうとう不意に『ああ神様!』と叫びざま、両手で顔をおおって、部屋の外へ駆け出してしまった。それに続いて来客一同も、あわててうっかり主人に挨拶も会釈もしないで、どやどやと外へ出てしまったのである。ただ二人の僧だけは、再び祝福を受けるために長老のそばへ近寄った。
「あの、長老が足にお辞儀をしたのはいったい何事でしょう、何かの象徴《シンボル》でしょうかなあ?」なぜか急におとなしくなったフョードル・パーヴロヴィッチが、まだ会話のいとぐちを見つけようとした。しかし特別、誰に向かって話しかけようという勇気もなかった。ちょうど一行はこのとき庵室の囲いの外へ出ようとするところであった。
「僕は瘋癲《ふうてん》病院や狂人どもに対しては責任を持ちませんよ」と、ミウーソフがいきなりむかっ腹を立てて答えた。「しかしその代わり、あなたと同席はまっぴら御免こうむりますよ、フョードル・パーヴロヴィッチ。それも、いいですか、永久にですよ。それはそうと、さっきのあの坊主はどこへ行ったんだろう?」
しかし、先刻、修道院長からの食事の招待を伝えた『あの坊主』はあまり長く待たせはしなかった。一行が長老の庵室の階段をおりると、すぐに彼は、まるでずっとそこに待ち受けていたように、さっそく出迎えたのである。
「神父さん、まことに恐縮ですが、わたくしの深い尊敬を修道院長にお伝えくだすったうえで、急に思いがけない事情が起こりましたため、まことに残念ですけれど、どうしても、お食事をいただくわけにまいりませんからと、このミウーソフになり代わって、あなたからよろしくおわびをしてくださいませんか」と、いらいらした調子のミウーソフは僧に向かって言った。
「その思いがけない事情というのは、わしのことでがしょう!」とすぐにフョードル・パーヴロヴィッチがあげ足を取った。「もし神父さん、このミウーソフさんはね、わしといっしょに残りたくないから、ああ言われるんですよ。さもなければ、すぐに出かけられるはずなんで。ね、だからおいでなさいよ、ミウーソフさん、修道院長のとこへ顔をお出しなさい。そして――よろしく召しあがれ! ようがすかね、あんたよりわしのほうが御免こうむりますわい。帰ります、帰ります、帰って家で食べましょうわい。ここではとてもそんな勇気がありませんからなあ、うちの大切な親類のミウーソフさん」
「僕はあなたと親類でもないし、これまで親類だったこともありませんよ、本当にあなたはげすな人だ!」
「わしはあんたを怒らせようと思って、わざと言ったんですよ。だって、あんたは親類だと言われるのが、ばかにお嫌いですからな。しかし、あんたがなんとごまかしなさっても、やっぱり親類にはちがいありませんよ。それは寺暦を繰ってみれば証明できまさあね。ところがイワン・フョードロヴィッチ、おまえもなんなら残るがいいよ、わしが時刻を見はからって馬車をよこしてやるからな。ミウーソフさん、あなたは礼儀からいっても、修道院長のとこへ顔を出さなくちゃなりませんて、そしてわしたちがあんたと長老のところで騒いだことを、おわびしなくちゃなりませんて……」
「あなたは本当に帰るんですか? 嘘をおっしゃるんじゃありませんね?」
「ミウーソフさん、あんなことのあった後で、どうしてそんな元気があるものですか。
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