なんと言うだろうかと注視していたが、やはりミウーソフと同じように、もう座にいたたまれない様子であった。アリョーシャは今にも泣きだしそうな顔をして、首うなだれて立っていた。何より不思議なのは兄のイワンである。彼は父に対してかなり勢力を持っている唯一の人間だから、今にも父をたしなめてくれるかと、アリョーシャはそればかり当てにしているのに、彼は眼を伏せたまま、身じろぎもしないで椅子に腰かけている。そしてこの事件にはなんの関係もない赤の他人のように、物珍しそうな好奇の色を浮かべながら、事件がどんな風に落着するかを、待ち設けているかの観があった。アリョーシャはラキーチン(神学生)の顔さえ、眺めることができなかった。それはやはり彼の親しい知り合いで、親友といってもいいほどのあいだがらであった。彼はその肚《はら》の中をよく知っていた(もっとも、それがわかるのは、修道院じゅうでアリョーシャ一人きりであった)。
「どうかお許しください」とミウーソフは長老に向かって口をきった。「ことによると私も、この悪ふざけの共謀者のように、あなたのお目に映るかもしれませんが、たとえフョードル・パーヴロヴィッチのような人でも、ああいう尊敬すべきかたをおたずねする場合には、自分の義務をわきまえていることと信じたのが、私のそもそもの過ちでございました……私はまさかこの人といっしょに伺ったことで、お許しを乞うようなことになろうとは、思いもかけませんでした……」
ミウーソフは最後まで言いきらないうちにまごついてしまって、そそくさともう出て行きそうにした。
「御心配なされますな、お願いですじゃ」突然、長老はひよわい足を伸ばして中腰に席を立つと、ミウーソフの両手を取って再び彼を肘椅子に坐らせた。「落ち着いてくだされ、お願いですじゃ。別してあなたには、わしの客となってもらいとうござりますのじゃ」彼は会釈をすると、向きを変えて再び自分の長椅子に腰をおろした。
「神聖な長老様、どうかおっしゃってくださいまし、わたくしがあんまり元気すぎるために、お腹立ちはなさりませんか、どうか?」と不意に、肘椅子の手すりを両手につかんで、返答次第では、その中から飛び出しかねないような身構えをしながら、フョードル・パーヴロヴィッチが叫んだ。
「どうかお願いですじゃ、あなたもけっして、御心配や御遠慮をなさらぬようにな」と長老は諭《さと》すように言った。「どうか遠慮をなさらぬようにな、自分の家にいるのと同じつもりでいてくだされ。何はともあれ第一に自分で自分を恥じぬことが肝心ですぞ、これがそもそも、いっさいのもとですからな」
「自分の家と同じように? つまりあけっぱなしでございますな? ああそれはもったいなさすぎます、もったいなさすぎます、がしかし――喜んでお受けいたしましょう! ところで、長老様、あけっぱなしでなどと、わたくしを煽《おだ》てないでください、剣呑《けんのん》でございますよ……あけっぱなしというところまでは、ちょっと当人のわたくしも、行き着きかねますて。これは、つまりあなたを守るために、前もって御注意するのでございます。まあ、その他のことは、まだ未知の闇に包まれております。もっとも、なかには、わたくしという人間を誇張したがっておる御仁《ごじん》もありますがな。これはミウーソフさん、あんたに当てて言ってることですよ。ところで、猊下《げいか》、あなた様に向かっては満腔《まんこう》の歓喜を披瀝《ひれき》いたしまする!」彼は立ち上って両手を差し上げると、言いだした。「『なんじを宿せし母胎と、なんじを養いし乳頭《ちくび》は幸いなり』、別して乳頭でございますて! あなた様はただ今『自分を恥じてはならぬ、これはいっさいのもとだ』と御注意くださりましたが、あの御注意でわたくしを腹の底まで見通しなさいましたよ。実際、わたくしはいつも人の中へはいって行くと、自分は誰よりもいちばん卑劣な人間で、人がみんな寄ってたかってわたくしを道化あつかいにするような気がするのでございます。そこで、『よし、そんなら本当に道化の役をやってみせてやろう。人の思わくなどかまうものか。どいつもこいつもみんな、わしより卑劣なやつらばかりだ!』ってんで、わたくしは道化になったのでございます。恥ずかしいが因《もと》の道化でございますよ、お偉い長老様、恥ずかしいが因《もと》なのでございます。小心翼々たればこそ、やんちゃもするのでございます。もし、わたくしが人前へ出るときに、みんながわたくしをおもしろい利口な人間だと思ってくれるという、確信があったならば、そのときのわたくしは、どんないい人間になったことでございましょうなあ! 師の御坊!」と、いきなり彼はひざまずいて、「永久の生命を受け継ぐために、わたくしはいったいどうすればよろしいのでございましょう?」
はたして彼はふざけているのか、それとも実際に感動しているのか、今はどちらとも決定することがむずかしかった。
長老は眼をあげて彼を眺めながら、微笑を含んで、こう言った。
「どうすればよいかは、自身で疾《と》うから御存じじゃ。あなたには分別は十分にありますでな。飲酒にふけらず、ことばを慎み、女色、別して拝金に溺《おぼ》れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにいかぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなされ。が、大事なことは、いちばん大事なことは――嘘をつかぬということですじゃ」
「と申しますと、ディデロートの一件なんでございますか?」
「いや、ディデロートのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実《まこと》を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱行を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな? そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、――誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ、――それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持ちになって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵《きゅうてき》のような心持になってしまうのじゃ……。さあ、立ってお掛けくだされ、どうかお願いですじゃ、それもやはり偽りの所作ではありませぬかな」
「お聖人様! どうぞお手を接吻させてくださいませ」フョードル・パーヴロヴィッチはぴょんぴょんと飛び上がると、長老の痩せこけた手をすばやくちゅっと接吻した。「全く、全くそのとおり、腹を立てるのがいい気持なんでございますよ。ほんとによくおっしゃりなされました、これまで、わたくしはそういうお話は聞いたことがございません。全くそのとおりで、わたくしは生涯のあいだいい気持になるまで腹を立ててまいりました。つまりその、美的に腹を立てたのでございますよ。なぜといって、侮辱されるというやつは、気持がいいばかりでなく、どうかすると美しいことがございますからな。この美しいっていうことを一つお忘れなされましたよ、長老様! これは手帳へ書きつけておきましょうわい! ところで、わたくしは徹頭徹尾、嘘をつきました。それこそ一生のあいだ毎日毎時間、嘘をつきました。まことに偽りは偽りの父なり!――でございますよ。もっとも、偽りの父ではないようでございますな。いつもわたくしは聖書の文句にはまごつきますので。まあ、偽りの子にしたところで結構なんですよ。ただしかし……長老様……ディデロートの話も、ときにはよろしゅうございますよ? ディデロートは害になりません、害になるのは別の話でございます。ときに、お偉い長老様、ついでにちょっと伺いますが、あ、うっかり忘れるところでした、これはもう三年も前から調べてみるつもりで、こちらへ伺ってぜひともお尋ねしようと存じておったのでございます。しかし、ミウーソフさんに口出しをさせないようにお願いいたします。ほかでもありませんが、『殉教者伝』のどこかにこんな話があるっていうのは、全くでございましょうか――それはなんでも、ある神聖な奇跡の行者が、信仰のために迫害をこうむっておりましたが、とどのつまり首をちょん切られてしまいましたんで。ところが、その行者はひょいと起き上がるなり、自分の首を拾って『いとおしげに接吻しぬ』とあるんです。しかも長いあいだそれを手に持って歩きながら、『いとおしげに接吻しぬ』なんだそうです。全体これは本当のことでしょうか、どうでしょう神父さんがた?」
「いいや、それは嘘ですじゃ」と長老が答えた。
「どの『殉教者伝』にもそんなようなことは載っておりません。いったい何聖人のことがそんな風に書いてあるとおっしゃるのですか?」と司書の僧が尋ねた。
「それはわたくしもよく存じませんので。いや、いっこうに知りませんよ。なんでもぺてんにかけられたとかいう話ですがな。わたくしも人からのまた聞きでして。ところで、いったい誰から聞いたとおぼしめしますか。このミウーソフさんですよ。たった今ディデロートのことで、あんなに腹を立てたミウーソフさんですよ。この人がわたくしに話して聞かせたのです」
「僕はけっして、そんな話をあなたにしたことはありませんよ。それに全体、僕はあなたとなんか、そんな話をしやしませんよ」
「なるほど、わしにお話しなされたことはありませんが、あんたが人中で話しておられた席に、わしは居合わせたというわけですよ。なんでも四年ばかり前のことでしたなあ。わしがこんなことをもちだしたのも、このおかしな話でもって、あんたがわしの信仰をぐらつかせなされたからですぜ、ミウーソフさん。あんたは何も御存じなしだが、わしはぐらついた信仰をいだいて帰りましたのじゃ。それ以来いよいよますます、ぐらついてきておるんですぜ。ほんとにミウーソフさん、あんたは大きな堕落の原因なんですぜ。これはもうディデロートどころの騒ぎじゃないて!」
フョードル・パーヴロヴィッチは悲痛な声でまくしたてた。しかし一同は、またしても彼が芝居をしているということを、もうはっきりと見抜いていた。それでもミウーソフはひどく気を悪くした。
「なんてくだらないことだ、何もかもがくだらないことだ」と彼はつぶやいた。「実際、僕はいつか話したことがあるかもしれん……しかしあなたに話したのではない。僕自身も人から聞いたんですからね。なんでもパリにいた時分に、あるフランス人が、ロシアでは『殉教者伝』の中で、こんな話を、弥撒《ミサ》に朗読するといって、話して聞かせたんです……その人は非常な学者で、ロシアに関する統計を専門的に研究していたんです……ロシアにも長らく住んでいたことがあります……僕自身は『殉教者伝』など読んだことはありません……この先も読もうとは思っていません……いや、全く食事のときなどには、どんなことをしゃべるかしれたもんじゃない……そのときも、ちょうど食事をしていたんですからね……」
「さようさ、あんたはそこで食事をしておられたのでしょうが、わしはこのとおり、信仰をなくしてしまったんですよ!」とフョードル・パーヴロヴィッチがまぜっかえした。
「あなたの信仰なんか、僕に何の用があるんです!」とミウーソフはわめきかけたが、急におのれを制して、さげすむように言った。「あなたは全く文字どおりに、自分のさわったものには泥を塗らずにおかぬ人ですよ」
長老は不意に席を立った。
「御免くだされよ、皆
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