そこで、もしも読者がこの最後の主張に賛成なさらずに、『そうではない』とか、『必ずしもそうではない』と答えられるとすれば、自分はむしろわが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチの価値について大いに意を強うする次第である。というのは、奇人は『必ずしも』特殊なものでも、格別なものでもないばかりか、かえって、どうかすると彼が完全無欠の心髄を内にもっているかもしれず、その他の同時代の人たちは――ことごとく、何かの風の吹きまわしで、一時的にこの奇人から引き離されたのだ、といったような場合がよくあるからである……。
 それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲をつかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上などはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかってもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読していただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要な小説は第二部になっている――これはわが主人公のすでに現代における活動である。すなわち、現に移りつつある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る十三年の前にあったことで、これはほとんど小説
前へ 次へ
全844ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中山 省三郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング