ヲ、すべての人間が苦しまなければならないのは、苦痛をもって永遠の調和をあがなうためにしても、何のために、子供がそこへ引き合いに出されるのだ、お願いだから聞かしてくれないか? 何のために子供までが苦しまなけりゃならないのか、どういうわけで子供までが苦痛をもって調和をあがなわなくてはならないのか、とんとわけがわからないんだ。どういうわけで、子供まで材料に入れられて、どこの馬の骨かわからないやつのために、未来の調和の肥やしにならなければならないんだ? 人間同士のあいだの罪悪の連帯関係は僕にもわかる。応報の連帯関係はわかる。しかし、子供とのあいだに連帯関係があるはずはない。そしてもし、子供が父のあらゆる悪行に対して、父と連帯関係があるというのが真理ならば、その真理はまさしくあの世に属するもので、僕なんかにはとてもわからない。また剽軽《ひょうきん》な連中は、子供もやがて大きくなれば、どうせいろんな悪いことをするだろうなどと言うかもしれないが、しかも、その子供はまだ大きくなってはいないんだ、まだ九つやそこいらのものを、犬で狩り立てたんじゃないか。おお、アリョーシャ、僕はけっして神を誹謗《ひぼう》するわけではないよ! もしも、天上天下のものがことごとく一つの賛美の声となって、生きとし生けるものと、かつて生ありしものとが声を合わせて、『主よ、なんじのことばは正しかりき。なんとなれば、なんじの道の開けたればなり!』と叫んだとき、全字宙がどんなに震撼《しんかん》するかということも、僕にはよくわかる。また母親が自分の息子を犬に引き裂かした暴君と抱き合って、三人の者が涙ながらに声をそろえて、『主よ、なんじのことばは正しかりき!』と叫ぶ時には、それこそもちろん、認識の極致が到達され、いっさいのことが明らかになるのだ。ところが、またここへコンマがはいるよ。僕はそれを容認することができないのだ。で、僕はこの地上に生きているあいだに、自分自身で早急に方法を講ずる。ねえ、アリョーシャ、ことによったら、僕はそれまで生き長らえるか、あるいはそれを見るためによみがえってくるかして、実際に自分の眼で、わが子の仇敵と抱き合っている母親の姿を見ながら、一同と共に、『主よ、なんじのことばは正しかりき!』と叫ぶことができるかもしれない。が、僕はその時にもそれを叫びたくはないのだ。まだ時日のあるあいだに僕は急いで自分自身を防衛する。したがって、より高き調和などは平に御辞退申し上げるよ。そんな調和は、あの臭い牢屋の中で小さな挙を固めて、われとわが胸をたたきながら、あがなわれることのない涙を流して、『神ちゃま』と祈った哀れな女の子の一滴の涙にすら値しないからだ! なぜ値しないかといえば、それはこの涙があがなわれることなしに打ちすてられているからだ。この涙は必ずあがなわれなくてはならない、さもなければ調和などというものはあり得ない。ただ、何によって、何をもってあがなおうというのだ? いったいそれは可能なことであろうか? 復讐《ふくしゅう》によってあがなわれるというのか? でも、僕には復讐なんか用はない、暴虐者のための地獄など、何になるんだ。すでに罪なき者が苦しめられてしまった暁に、地獄なんかが何の助けになるんだ! 第一、地獄が存在していてどんな調和があるんだ。僕は許したいのだ、抱擁したいのだ、人間がこれ以上苦しむことを欲しないのだ。もしも子供の苦悶が真理のあがないに必要なだけの苦悶の定量を満たすために必要だというなら、僕は前もってきっぱり断言しておく――いっさいの真理もそれだけの代償に値しないと。それぐらいなら、母親がわが子を犬に引き裂かした暴君と、抱擁などしてくれなくってもいいんだ! 母親だって、暴君を許す権利はないのだ! もしも、たって望むなら、自分だけの分を許すがいい、自分の、母親としての無量の苦痛だけを許してやるがいい。しかるに八つ裂きにされたわが子の苦痛は、けっして許す権利を持っていないのだ。たとい、子供自身が許すといっても、その暴君を許すわけにはいかないのだ! もしもそうならば――もしも誰もが許す権利を持っていないとすれば、いったいどこに調和があり得るのだ? いったいこの世界に許すという権利を持った人間がいるだろうか? 僕は調和は欲しくない、つまり、人類に対する愛のために欲しくないというのだ。僕はむしろ報復されない苦悶をもって終始したい。たとい僕の考えが間違っていても、やるせない苦悶と、癒《い》やされざる不満の境にとどまるのを潔しとする。それに調和というやつがあまり高く値踏みされているから、そんな入場料を払うことは、どうも僕らのふところぐあいに合わないんだよ。だから僕は自分の入場券だけを急いでお返しする。僕が潔白な人間であるならば、できるだけ早くお返しするのが義務なんだよ
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