Aたたく、蹴《け》る、しまいには、いたいけな子供の体が一面、紫色になってしまった。しかるに、やがてそれにもいや気がさしてきて、もっとひどい技巧を弄《ろう》するようになった。というのは、実に寒々とした厳寒の季節に、その子を一晩じゅう便所の中へ閉じこめるのだ。それもただ、その子が夜なかに用便を教えなかったというだけの理由にすぎないのだ(いったい天使のような、無邪気にぐっすり寝入っている、五つやそこいらの子供が、そんなことを知らせる知恵があるとでも思っているのかしら)、そうして、もらしたきたない物をその子の顔に塗りつけたり、むりやり食べさせたりするのだ。しかも、これが現在の生みの母親のしわざなんだからね! この親は夜よなかにきたないところへ閉じこめられた哀れな子供のうめき声を聞きながらも、平気で寝ていられるというんだからな! おまえにわかるかい、まだ自分がどんな目に会わされているのかも理解することができない。小っちゃな子供が、暗い寒い便所の中でいたいけな拳《こぶし》を固めながら、痙攣《けいれん》に引きむしられたような胸をたたいたり、邪気のないすなおな涙を流しながら、『神ちゃま』に助けを祈ったりするんだよ――え、アリョーシャ、おまえはこの不合理な話が説明できるかい。僕の弟で、親友で、神聖な新発意《しんぼち》のおまえは、いったい何の必要があってこんな不合理が創られたものか、説明ができるかい! この不合理がなくては人間は地上に生きて行かれない、なぜなら、善悪を認識することができないから――などと、人はよく言うけれど、そんな代価を払ってまで、ろくでもない善悪を認識する必要がどこにあるんだ? 認識の世界全体をあげても、この子供が『神ちゃま』に流した涙だけの価もないではないか。僕は大人の苦悩のことは言わない。大人は禁断の木の実を食ったんだから、どうとも勝手にするがいい。みんな悪魔の餌食《えじき》になってしまったってかまいはしない、僕がいうのはただ子供だけのことだ、子供だけのことだ! おや、僕はおまえを苦しめてるようだね、アリョーシャ、なんだか人心地もなさそうじゃないか。もしなんなら、やめてもいいよ」
「大丈夫です、僕もやっぱり苦しみたいんですから」とアリョーシャはつぶやいた。
「もう一つ、ほんのもう一つだけ話さしてくれ。これも別に意昧はない、ただ好奇心のためなんだ。非常に特殊な話なんだが、つい近ごろ、ロシアの古い話を集めた本で読んだばかりなんだ。『書記《アルヒーフ》』だったか『古事《スタリナー》』だったか、よく調べてみなければ、どちらで読んだか忘れてしまったよ。なんでも現世紀の初めごろ――農奴制の最も暗黒な特代のことさ、それにしても、かの農奴解放者万々歳だ! さてその現世紀の初めごろ、一人の将軍があったのさ。立派な縁者や知友をたくさんもった、きわめて富裕な地主であったが、職を退いてのんきな生活にはいると共に、ほとんど自分の家来の生殺与奪の権を獲得したもののように信じかねない連中の一人であった(もっとも、こんな連中はその当時でも、あまりたくさんはいなかったらしいがね)。しかし、時にはそんなのもいたんだよ。さてこの将軍は、二千人からの農奴のいる自分の領地に暮らしていて、近隣の有象無象の地主などは、自分の居候か道化のように扱って、威張り散らしていたものだ。この家の犬小屋には何百匹という猟犬がいて、それに百人ばかりも犬番がついていたが、みんな制服を着て馬に乗ってるのさ。ところが、ある時、召し使いの子供でやっと九つになる男の子が、石を投げて遊んでいるうちに、誤って将軍の秘蔵の愛犬の足を傷つけたんだ。『どうしておれの愛犬は跛《びっこ》を引いてるのか?』とのお尋ねに、これこれで子供が石を投げて御愛犬の足を痛めたのでございますと申し上げると、『ああん、貴様のしわざなんか』と将軍は子供をふり返って、『あれをつかまえい!』と命じた。で、人々はその子供を母の手もとから引ったてて、一晩じゅう牢の中へ押しこめた。翌朝、未明に将軍は馬にまたがって、本式の狩猟のこしらえでお出ましになる。まわりには居候や、犬や、犬飼いや、勢子《せこ》などが居並んでいるが、みんな馬に乗っている。ぐるりには、召し使いどもが見せしめのために呼び集められている。そのいちばん先頭には悪いことをした子供の母親がいるのだ。やがて、子供が牢から引き出されて来た。霧の深い、どんよりした、寒い秋の日のことで、猟には持ってこいの日和《ひより》だった。将軍は子供の着物を剥《は》げと命じた。子供はすっかり丸裸にされて、ぶるぶる震えながら、恐ろしさにぼうっとなって、口さえきけないありさまなのだ。『それ、追え!』と将軍が下知をする。『走れ、走れ!』と勢子どもがどなるので、子供は駆け出した……と、将軍は『かかれ!』と叫んで
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