け始めた。そうして、息を切らしながら、踏みつけるたびにわめき立てた。
「これがあなたの金ですよ! これがあなたの金です! これがあなたの金なんです! これはあなたの金なんだ!」
不意に、ひょいと、彼は後ずさりして、アリョーシャの前に仁王立ちになった。その全体の様子は名状すべからざるプライドを示していた。
「あなたを使いによこした人に言ってやってください、糸瓜《へちま》は自分の名誉を売り物にしないって!」
彼は両手を宙へさし上げながら、叫ぶのであった。それから急に身をかわしたかと思うとまっしぐらに駆け出した。が、まだ五足と行かないうちに、不意に彼はまたふり返って、アリョーシャに手を振って見せた。またもや五足と走らないうちに、もう一度ふり返ったが、これが最後であった。この時はゆがんだような笑いのかげもなく、顔は涙にぬれて震えていた。涙ぐんで、とぎれがちなむせび泣くような声で、彼は早口に叫んだ。
「あんな恥ずかしい思いをして、その報いに金なんかをもらったら、うちの子になんと言いわけができるのか!」こう言うなり、彼はまっしぐらに駆け出して、今度はもうふり返ろうともしなかった。アリョーシャは言い知れぬ悲しさを覚えながら、後姿を見送っていた。ああ、あの人も最後の瞬間まで、自分が紙幣をもみくちゃにして地べたへ放り投げようとは、夢にも考えなかったろう。アリョーシャにはそれがよくわかっていた。彼は走りながら、一度も後をふり返らなかった。けっしてふり返らないだろうということは、アリョーシャもよく承知していた。彼は二等大尉の後をつけて、声をかけようという気にはならなかった。その理由も彼にはよくわかっていた。相手の姿が見えなくなったとき、アリョーシャは二枚の紙幣を拾い上げた。紙幣はただ、皺くちゃになって、砂の中にめりこんでいるばかりで、アリョーシャが広げて皺を伸ばしてみると、破れたところもなく、まるで新しい物のように、ぱりぱりしていたほどであった。彼は皺を伸ばして、それをたたむと、ポケットに入れて、頼まれたことの結果を報告するために、カテリーナのもとをさして歩き出した。
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第五篇 Pro et contra
一 婚約
アリョーシャをまず最初に出迎えたのは、やはりホフラーコワ夫人であった。夫人はあわてていた。かなりたいへんな騒ぎが起こったのであった。カテリーナ・イワーノヴナのヒステリイは、あげくのはてには卒倒するに至って、やがて、『恐ろしいほど、ひどい衰弱に襲われましてね、あの人は床について眼をつりあげて、うわごとを始めなさいましてね。いま熱が出ましてね、ヘルツェンシュトゥベも迎えにやりましたし、二人の伯母さんも迎えにやりましたの。伯母さんたちはもういらっしってますけれど、ヘルツェンシュトゥベのほうはまだお見えになりません。みんなあの人の部屋に控えて、お待ちしていますの。何か起こるでしょうよ、なにしろ、あの人はもうまるで覚えがないんですからね。まあひどい熱病にでもなったら!』
こういううちにも、夫人はひどく驚いたような風をしていた。そして、『これはもうたいへんなことです、たいへんなことです!』と一言一句につけ加えていたが、まるで今までにあったことは何もかもたいへんなことなんかでなかったかのようであった。アリョーシャは心苦しそうに、夫人のことばを聞き終わった。今度は彼が自分のほうに起こった出来事を話しかかったが、夫人は暇がないからと言って、口を切りだしたかと思うとたちまちそれをさえぎってしまった。どうかリーズのところへ行って、そのそばで自分が来るのを待っていてくれと頼むのであった。
「アレクセイさん、リーズはね」と、夫人はほとんど耳もとに口をあてんばかりにしてささやいた、「リーズは今わたしを妙にびっくりさせましたの、ですけれど、喜ばしてもくれました。ですから、わたしはあれのことならなんでも許してやりますわ。まあ、どうでございましょう、あなたが出ていらっしゃるとすぐに、あの子は昨日も今日も、あなたをからかったとか言って、ひどく後悔しだしましてね。でもあの子は、からかったんじゃありませんわ、ただちょっと、ふざけただけですの。けれど、涙を流さんばかりに心から後悔するものですから、わたしびっくりしてしまいましたの。今までにあの子がわたしをからかったからって、一度もまじめに後悔したことなんかありません。いつも冗談なんでございます。あなたも知っていられるように、あの子ったらもう、しょっちゅうわたしをからかってばかりいるんですよ。ところが、今日はどうしたことかまじめなんですの。それこそ大まじめなんです。あの子はね、アレクセイさん、たいそうあなたの御意見を尊重しております。ですから、もしできることなら、あの子のことを腹を立てないでい
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