ソは歌をうたっていたっけ……だが、おれはさめざめと泣いていたんだ、あのとき泣きながら、おれはひざまずいてカーチャの面影に祈りを捧げていたのだ、そしてグルーシェンカだって、おれの気持をわかってくれたよ、あのときあれは何もかもわかってくれて、そういえばたしか自分でも泣いていたようだよ……しかし、畜生! 今から思えばこうなっていくのが当然だったんだよ! あのときは泣いたくせに、今は……今は『胸に剣を!』ってわけか、みんな女はそんなものさ!」
彼は伏し目になって物思いに沈んだ。
「そうだよ、おれは悪党だ! 紛れもない悪党だ!」と、不意に彼は陰気な声でこう言った。「泣いても泣かなくても、どちらにしても、悪党に違いないんだ! どうか、あの女にそう言ってくれ、それで腹が癒《い》えるものなら、おれは喜んで悪党よばわりに甘んじますってな、しかし、もうたくさんだ、むだ口をきくことなんかありゃしない! おもしろくもなんともないよ、おまえはおまえ、おれはおれの道を行くことにしよう、おれはもう、いよいよこれが大詰めという瞬間までは、二度と会いたかないんだよ、さようなら、アレクセイ!」こう言って彼は固くアリョーシャの手を握りしめると、やはり伏し目になって頭をたれたまま、まるで振り切るようにして、足早に町の方角へ歩き出した。アリョーシャはその後ろ姿を見送っていたが、兄がこうだしぬけに行ってしまおうとは、どうしても信ぜられないという風であった。
「待ってくれ、アレクセイ、もう一つ白状したいことがあるんだ、おまえにだけ!」と、不意に引っ返して来たドミトリイ・フョードロヴィッチが言った。「おれを見ろ、じっとおれを見るんだ、いいか、そらここだよ、ここで今、恐ろしい破廉恥なことが覚悟されていたのだ、(『そらここだよ』と言いながら、ドミトリイ・フョードロヴィッチは変な顔つきで、自分の胸をとんと拳《こぶし》でたたいた。それはまるで、破廉恥というものが正《まさ》しくそこにあって、胸の上のポケットの中へでも蔵《しま》っておくか、ないしは何かに縫いこんで首にぶら下げているとでもいうような風であった)おまえも知っているように、おれは悪党だ、折り紙つきの悪党だよ! だが、覚えておいてくれ、現在この瞬間、そらここに、このおれの胸の中におれが持っている破廉恥に比べれば、以前に犯したどんなことだって、今、または今後しでかすかもしれんどんな陋劣なことだって、物の数ではないんだよ、その破廉恥が現に遂行せられようとしているが、それを中止しようと、決行しようと、今のところ、まだおれの自由なんだ、そこを覚えといてくれよ! いや、結局おれは中止しないで、決行するに違いないと思ってくれ、さっきおれは、何もかもおまえにぶちまけたけれど、このことだけは話せなかった。おれだって、別にそれほど面の皮が厚くはないからなあ! ところで、おれはまだ思いとどまることができるんだ。思いとどまりさえすれば、あすにでも、失墜した名誉の半分だけは確かに取戻すことができるのだ。しかし、思いとまるまい、おれは筋書を完全にやりとおすよ。さあおまえ、証人に立ってくれ、おれは前もって、ちゃんと意識してこう言っておくからな! 暗黒と滅亡だ! 何も説明など必要がない、時節が来れば自然にわかるよ、けがらわしい路地と極道女か! じゃ、あばよ! おれのことなんぞ神様に祈らないでくれよ、おれはそんな値打ちがないのだ。それに必要もないよ、いや全然必要がないのだ! おれはちっともそんなことをして欲しいと思わんよ! さあ行け!……」
こう言って不意に歩き出すと、今度は本当に行ってしまった。アリョーシャは修道院をさして歩を進めた。『なんだって、なんだって、おれはさっぱりわからないんだ、兄さんはいったい何を言ってるんだろうな?』それが彼には奇態に感ぜられた。『そうだ、明日はぜひ兄さんに会って、問いただしてやろう、無理にでも問いただしてやるんだ、いったいあれは何を言っているんだか?』
彼は修道院を迂回《うかい》すると松林を抜けて、まっすぐに庵室へたどりついた。庵室へはこの刻限になると誰も入れないことになっていたが、彼にはすぐに扉をあけてくれた。長老の部屋へはいった時、彼の胸は打ち震えた。『何のために、何のために自分はここを出て行ったのだろう! また何のために長老は自分を「娑婆」へ送り出したのだろう? ここには静寂と霊気が溢《あふ》れているのに、かしこは擾乱《じょうらん》と暗黒の巷《ちまた》で、一歩そこへ足を踏み入れたが最後、混迷の中に行き暮れてしまわなければならぬ……』
庵室には新発意《しんぼち》のポルフィーリイとパイーシイ神父が居合わせたが、この神父は今日は終日、ほとんど一時間おきに、ゾシマ長老の容態を見にやって来たのである。アリョーシャは、長
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