ス。こうした愛想のいい口調はアリョーシャには、全く思いがけなかった。
「僕はあすホフラーコワ夫人のところへ出かけますし」とアリョーシャは答えた、「それにカテリーナ・イワーノヴナのところへも、今晩もし留守だと、あすまた行くかもしれません……」
「じゃ、これから、やっぱりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行くんだね? 例の『よろしく、よろしく』かい!」突然イワンは、にやりと笑った。アリョーシャは妙にどぎまぎした。
「おれはどうやら、さっき兄貴のどなったこともすっかり読めたし、以前《まえ》からのことも幾分わかってきたような気がするよ。ドミトリイがおまえを使いにやるわけは、きっとあの女《ひと》に……その……なんだよ……いや、つまりひとくちに言えば、『よろしく言って』ほしいからなのさ」
「兄さん! いったい、お父さんとミーチャとの、あの恐ろしい事件は、どんな風に結末がつくんでしょうね?」とアリョーシャが叫んだ。
「はっきりしたことを言い当てるわけにはいかんよ、だが、たいしたこともなしに、立ち消えになるかもしれんよ、あの女は、獣だぜ、いずれにしても、親爺は家の中に引き止めておいて、ドミトリイを家へ入れないことだ」
「兄さん、じゃもう一つ聞きたいんですがね、人間は誰でも、他人を見て、誰は生きる資格があって、誰は資格がない、などとそれを決める権利を持ってるものでしょうか?」
「なんだってここへ資格の決定なんかもちこむんだい! この問題は資格などを基礎に置くべきでなく、もっと自然な、他の理由のもとに、人間の心で決定されるのが最も普通だよ、だが、権利という点では、誰がいったい希望する権利を持っていないだろう?」
「しかし他人の死ぬのを希望するってわけじゃないでしょう?」
「他人の死ぬことだってしかたがないさ、それにすべての人がそんな風な生き方をしている、というよりは、それ以外の生き方がないんだからね、なにも、自分で自分に嘘をつく必要はないじゃないか、おまえがそんなことを持ちだしたのは、『毒蛇が二匹で呑み合ってる』と言った、おれのさっきのことばから思いついたのかい? そういうことなら、おれのほうからも一つ聞きたいね、おまえはこのおれも、ミーチャと同じようにあのイソップ爺《じじい》の血を流しかねない――つまり殺しかねない人間だと思ってるかい?」
「何を言うのです、イワン! そんなことは僕は、夢にも考えたことがありません! それにドミトリイだってまさかそんな……」
「いや、それだけでもありがたいぞ!」とイワンはにやりとして、「おれはいつでも親爺を守ってやるよ、しかし、希望の中にはこの際、十二分の余裕を残しておくぞ。じゃ、明日までさようなら、おれを責めないでくれ、そして悪者あつかいにしないでなあ」と彼は微笑を浮かべながら、つけ足した。
二人はついぞこれまでにないような、強い握手をかわした。アリョーシャは、兄が自分から進んで、こっちへ一歩接近して来たのは、きっと、何か魂胆があるのだと感づいた。
一〇 女二人が
アリョーシャは、先刻ここへはいったときより、さらに激しく打ち砕かれ、押しひしがれたような気持になって父の家を出た。彼の理性もやはりみじんに砕けて、ちぢに乱れているようであったが、同時に彼は、そのばらばらになったものをつなぎ合わせて、今日一日に経験したあらゆる悩ましい矛盾の中から、一つのだいたいの観念を組み立てるのが空恐ろしいように思われた。何かほとんど絶望そのものと境を接しているような、あるものが感じられた。こんなことは、ついぞこれまでアリョーシャの心には覚えのないことであった。そうしたいっさいのもののうえに山のようにそびえ立っているのは、あの恐ろしい女を巡って、父と兄とのあいだにもちあがっている事件が、どういう結末に終わるだろうか? という宿命的な、解決しがたい疑問であった。今や、彼は自分自身がその目撃者であった。みずからその場に居合わして、彼は相対峙《あいたいじ》せる二人を見たのである。だが、不幸な人、本当に恐ろしく不幸な人と感じられるのは、ひとり兄ドミトリイだけであった。彼はもはや疑いもない、恐ろしい災厄に待ち伏せられているのである。そのうえに、アリョーシャがこれまで考えていたよりは、はるかにこの事件に関係の深い人がまだほかにもあるらしい。そればかりか、何か謎《なぞ》のようなものが現われたのである。兄のイワンは、アリョーシャが久しく望んでいたように、自分のほうへ一歩接近して来たけれど、彼にはなぜか、その接近の第一歩が、妙に薄気味悪く感じられるのであった。ところが、あの二人の女のことはどうであろう? 奇態なことであるが、さきほどカテリーナ・イワーノヴナのところを指して出かけたとき、ひどく当惑を覚えたにもかかわらず、今は少しもそんな気
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