、青のフラフの遊覧船が三々五々と私たちの前を行くのだ。
 遡流は氷室山の麓を赤松の林と断崖のほそぼそした嶮道に沿つて右へ右へと寄るのが法とみえる。「これが犬帰《いぬかへり》でなも。」と後から赤銅の声がする。
 烏帽子岩、風戻、大梯子、そこでこの犬帰の石門、遮陽石といふのださうな。
「ほれ、あの屋根が鳥瞰図を描くYさんのお宅ですよ。」
 幽邃な繁りである。蝉、蝉、蝉。つくつくほうし。
「この高い山は。」
「継鹿尾山《つがのをやま》、寂光院といふ寺があります。不老の滝といふのもありますが下つて御覧になりますか。」
「いや、ぐんぐんのぼらう。」
 風が涼しい。潭は澄み、碧流は渦巻く。紫紺の水禽は遡る、遡る。
「あれが不老閣。」
「閑静だなも。」
 と、これより先き、中流に中岩といふのがあつた。振り返ると、いつになく左後ろ斜めに岩と岩と白い飛沫をあげてゐる。
 それから千尺の翠巒と断崖は浣華渓となるのである。

 波、波、波、波、波
  波、波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、波、
  波、波、波、波、
 波、波、波、波、波、波、

「爽快々々。」
「富士ヶ瀬です。」
 すばらしい飛沫、飛沫、飛沫。奔流しつつ、飛躍しつつ、擾乱しつつだ。
 一面淙々たり。
「や。」
「赤岩です。」とM君。
 まさしく瑠璃の、群青の深潭を擁して、赤褐色の奇巌の群々がくわつと反射したところで、しんしんと沁み入る蝉の声がする。
 稚い雌松の林があり、こんもりした孟宗藪がある。藪の外にはほのぼのとした薄くれなゐの木の花も咲いてゐる。
「あれは何の花だね。」
「漆の花だなも。」で、巧に棹を操る舳の船頭である。白の饅頭笠に墨色鮮かに秀山霊水と書いてある。
 そのあたりが栗栖の里。
 と、書き落したが、その漆の花が眼に入るまでには石床の大きなでこでこの二つの岩、お富与曾松の岩といふのがあつた。恋は悲しい、遂に添はれぬ身の果を歎いて、お富もまた離ればなれに上の手の岩から身を躍らしたと俚俗にいふ。
「これがローレライで。」
 ローレライはちと苦笑される。
 新赤壁は左にあつた。その前を昔の中仙道が通つて、ひとつ※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]ると岩屋観音がある。白い汚れた幟が見える。
 ここで再び蕭々たる急湍にかかる。観音の瀬である。
「まだひどい水で。」と前のがのめる。
 やつとのことで、その
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