一時間。
何処《どつか》で投げつけるやうな
あかんぼの声がする。
[#地から3字上げ]四十四年十月



[#ここから2字下げ、30字詰め]
四十四年の春から秋にかけて自分の間借りして居た旅館の一室は古い土蔵の二階であるが、元は待合の密室で壁一面に春画を描いてあつたそうな、それを塗りつぶしてはあつたが少しづつくづれかかつてゐた。もう土蔵全体が古びて雨の日や地震の時の危ふさはこの上もなかつた。
[#ここで字下げ終わり]

  黄色い春

黄色《きいろ》、黄色、意気で、高尚《かうと》で、しとやかな
棕梠の花いろ、卵いろ、
たんぽぽのいろ、
または児猫の眼の黄いろ……
みんな寂しい手ざはりの、岸の柳の芽の黄いろ、
夕日黄いろく、粉《こな》が黄いろくふる中に、
小鳥が一羽鳴いゐる。
人が三人泣いてゐる。
けふもけふとて紅《べに》つけてとんぼがへりをする男、
三味線弾きのちび男、
俄盲目《にわかめくら》のものもらひ。

街《まち》の四辻、古い煉瓦に日があたり、
窓の日覆《ひよけ》に日があたり、
粉《こな》屋の前の腰掛に疲れ心の日があたる、
ちいちいほろりと鳥が鳴く。
空に黄色い雲が浮く、
黄いろ、黄いろ、いつかゆめ見た風も吹く。

道化男がいふことに
「もしもし淑女《レデイ》、とんぼがへりを致しませう、
美くしいオフエリヤ様、
サロメ様、
フランチエスカのお姫様。」
白い眼をしたちび男、
「一寸、先生、心意気でもうたひやせう」
俄盲目《にわかめくら》も後《うしろ》から
「旦那様や奥様、あはれな片輪で御座います、
どうぞ一文。」
春はうれしと鳥も鳴く。

夫人《おくさん》、
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
御覧なさい、あれ、あの柳にも、サンシユユにも
黄色い木の芽の粉《こ》が煙り、
ふんわりと沁む地のにほひ。
ちいちいほろりと鳥も鳴く、
空に黄色い雲も浮く。

夫人《おくさん》。
美くしい、かはいい、しとやかな
よその夫人《おくさん》、
それではね、そつとここらでわかれませう、
いくら行《い》つてもねえ。

黄色、黄色、意気で高尚《かうと》で、しとやかな、
茴香《うゐきやう》のいろ、卵いろ、
「思ひ出」のいろ、
好きな児猫の眼の黄いろ、
浮雲のいろ、
ほんにゆかしい三味線の、
ゆめの、夕日の、音《ね》の黄色。
[#地から3字上げ]四十五年三月

  汽
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