は永久《とこしへ》にうらわかい町の処女に依て斎《いつ》がれ(各の町に一体づつの観世音を祭る、物日にはそれぞれある店の一部を借りて開帳し、これに侍づくわかい娘たちは参詣の人にくろ豆を配り、或は小屋をかけていろいろの催をする。さうしてこの中の資格は処女に限られ、縁づいたものは籍を除かれ、新しい妙齢《としごろ》のものが代つて入る。)天火《てんび》のふる祭の晩の神前に幾つとなくかかぐる牡丹に唐獅子の大提灯は、またわかい六騎の逞しい日に焼けた腕《かひな》に献げられ、霜月親鸞上人の御正忌となれば七日七夜の法要に寺々の鐘鳴りわたり、朝の御講に詣づるとては、わかい男女夜明まへの街の溝石をからころと踏み鳴らしながら、御正忌|参《めえ》らんかん…………の淫らな小歌に浮かれて媾曳《あひびき》の楽しさを仏のまへに祈るのである。
 沖の端の写真を見る人は柳、栴檀、石榴、櫨などのかげに、而も街の真中を人工的水路の、水もひたひたと白く光つては芍薬の根を洗ひ洗濯女の手に波紋を画く夏の真昼の光景に一種のある異国的情緒の微漾を感ずるであらう。あの水祭はここで催され藍玉の俵を載せ、或は葡萄色の酒袋を香《にほひ》の滴るばかり積みかさねた小舟は毎日ここを上下する。正面の白壁はわが叔父の新宅であつて、高い酒倉は甍の上部を現はすのみ。かうして、私の母家はこの水の右折して、終に二条の大きな樋に極まり、渦を巻いて鹹川に落ちてゆくその袂から、是に左したるところにある。
 今は銀行となつたが、もとはやはり姻戚の阿波の藍玉屋の生鼠《なまこ》壁の隣に越太夫といふ義太夫の師匠が何時も気軽な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、桜のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相対して同じ様な生鼠壁の旧家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka《トンカ》 John《ジョン》(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油醸造を止した。
 南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲生英《たんぽぽ》の生えた旧い土蔵づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、渋い店格子を透いて、銘酒を満たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁の一つに紺色の可憐な燕の雛が懐かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は広く、店|全幅《いつぱい》の薬種屋式の硝子戸棚には曇つた山葵《わさび》色の紙が張つてあつて、其中ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の絵の、眼の青い、そして胸の白い女の横顔のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを続けてゐた。その戸棚を開けると、緑礬、硝石、甘草、肉桂[#「肉桂」は底本では「肉柱」]、薄荷、どくだみの葉、中には売薬の版木等がしんみりと交錯《こんがら》がつた一種異様の臭を放つ。それはある漂流者がここに来て食客をしてゐた時分密かに町の人に薬を売つてゐたのが、逝《な》くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、旧い話であらう。
 庭には無論|朱欒《ザボン》の老木が十月となれば何時も黄色い大きな実をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は湿つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に樋匠《をけはな》は長閑に槌を鳴らし、赤裸々《あかはだか》の酒屋男は雪のふる臘月にも酒の仕込みに走り廻り、さうして町の水路から樋をくぐつて来るかの小さい流は隠居屋の凉み台の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒樋を洗ひ真白な米を流す水となり、同じ屋敷内の瀦水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然るのち、ちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]の菜園を一|周回《めぐり》して貧しい六騎《ロツキユ》の厨裏に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだはもと古い僧院の跡だといふ深い竹籔であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹籔を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ昼は赤い鬼百合の咲く畑に夜は幽霊の生じろい火が燃えた。
 世間ではこの旧家を屋号通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋《ふつどいや》」と称へた。実際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石数高く魚類の問屋としては九州地方の老舗として夙に知られてゐたのである。従て浜に出ると平戸、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無塩、塩魚、鯨、南瓜《ボウブラ》、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで来て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々は、血のついた腥くさい石甃《いしだゝみ》の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を真赤に開けては、激しい夕焼の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
 私はかういふ雰囲気の中で何時も可なり贅沢な気分のもとに所謂油屋の Tonka《トンカ》 John《ジヨン》として安らかに生ひ立つたのである。

    南関

 私の第二の故郷は肥後の南関《なんくわん》であつた。南関は柳河より東五里、筑後境の物静かな山中の小市街である。その街の近郊|外目《ほかめ》の山あひに恰も小さな城のやうな何時も夕日の反照をうけて、たまたま旧道をゆく人の胆仰の的となつた天守造りの真白な三層楼があつた。それが母の生れた家であつて、数代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であつた。
 私もまたこの小さな国の老侯のやうに敬はれ、侍《かしづ》かれ、慕はれて、余生を読書三昧に耽つた外祖|業隆《なりたか》翁の真白な長髯の家で生れて――明治十八年一月二十五日――然る後古めかしい黒塗の駕籠に乗つて、まだ若い母上と柳河に帰つた。
 私は生れて極めて虚弱な児であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外気に当るか、冷たい指さきに触《さは》られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危険極まる児であつた。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆んど壊れ物に触るやうな心持で恐れて誰もえう抱けなかつたさうである。それで彼此往来するにしても俥からでなしに、わざわざ古めかしい女駕籠《をんなのりもの》を仕立てたほど和蘭の舶来品扱ひにされた。それでもある時なぞは着いてすぐ玄関に舁ぎ据ゑた駕籠の、扉をあけて手から手へ渡されたばかりでもう蒼くなつて痙攣《ひきつ》けて了つたさうである。
 三歳の時、私は劇しい窒扶欺《チブス》に罷つた。さうして朱欒《サボン》の花の白くちるかげから通つてゆく葬列を見て私は初めて乳母の死を知つた。彼女は私の身熱のあまりに高かつたため何時しか病を伝染《うつ》されて、私の身代りに死んだのである。私の彼女に於ける、記憶は別にこれといふものもない。ただ母上のふところから伸びあがつて白い柩を眺めた時その時が初めのまた終りであつた。
 家に来た乳母はおいそと云つた。私はよく彼女《かれ》と外目《ほかめ》の母の家に行つては何時も長々と滞留した。さうして迎への人力車がその銀の輪をキラキラさして遙かの山すその岡の赤い曼珠沙華のかげから寝ころんで見た小さな視界のひとすじ道を懐しさうに音をたてて軋つて来るまで、私たちは山にゆき谷にゆき、さうしてただ夢の様に何ものかを探し廻つて、もう馴つこになつて珍らしくもない自分たちの瀉くさい海の方へ帰らうとも思はなんだ。
 かういふ次第で私は小さい時から山のにほひに親しむことが出来た。私はその山の中で初めて松脂のにほひを臭ぎ、ゐもりの赤い腹を知つた。さうして玉虫と斑猫《はんめう》と毒茸と……いろいろの草木、昆虫、禽獣から放散する特殊のかをりを凡て驚異の触感を以つて嗅いで廻つた。かゝる場合に私の五官はいかにも新しい喜悦に顫へたであらう。それは恰度薄い紗《きれ》に冷たいアルコールを浸して身体の一部を拭いたあとのやうに山の空気は常に爽やかな幼年時代の官感を刺戟せずには措かなかつた。
 南関の春祭はまた六騎の街に育つた羅漫的《ロマンチツク》な幼児をして山に対する好奇心を煽てるに充分であつた。私は祭見物の前後に顫へながらどんぐりの実のお池の水に落つる音をきき、それからわかい叔母の乳くびを何となく手で触つた。



底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2004年6月16日作成
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