もろて》あはせぬ。

長老は拂子《ほつす》しづしづ
誦經《ずきやう》いま、咽び音《ね》まじり、
廣澄《ひろす》みぬ。――七歳《ななつ》の我は
興なさに、此時膝に
眼うつせば、紗《しや》の服がくれ、
だぶだぶの赤足袋。――をかし、
髯づらに涙ながれき。

『南無阿彌陀。』―― 沙彌《しやみ》が眼光り、
拂子《ほつす》ゆれ、風湧く刹那、
一齊に念佛起り、
老若も、男女も、子らも、
赤足袋も、咽《むせ》ぶと見れば、
層高《きはだか》の銅拍子《どうびやうし》、――あなや、
われ堪へず、――笑ひくづれき。


 挨拶


祭《まつり》の日、美くしき人も來ましき。
稚き女の友もあつまりぬ。
あるは、また、馬に騎《の》りて、
物むつかしき武士《さむらひ》の爺《をぢ》も來ましき。

樂しかる祭なれども、
われはただつねにおそれぬ。

祭《まつり》の日、むつかしき言《こと》のかずかず
挨拶《あひしら》ひ、父は笑《ゑ》ましき、
禿頭《はげあたま》するするとかきあげながら――
われもまた爲《せ》ではかなはじ、かのごとも大人《おとな》とならば。

樂しかる祭《まつり》なれども、
われはただつねにおそれぬ。


 あかき林檎


いと紅き林檎の實をば
明日《あす》こそはあたへむといふ。
さはあれど、女の友は
何時《いつ》もそを持ちてなかりき。
いと紅き林檎の實をば
明日こそはあたへむといふ。


 恐怖


乳母なれどわれは恐れき。
夜も晝も『和子よ。』と欷歔《さぐ》り、
『骨だちぬ。』われを『死なば。』と、
母よりも激しき愛に、
抱擁《だきし》めつ。――『かなし。』とばかり。

乳母なれど、せちに恐れき。
執着《しふちやく》よ、臨終《いまは》の刹那、
涙なき老《おい》の眼《まなこ》は、
母よりも激しき愛に
我みつめ――青く白みき。

乳母なれど、いまも恐れぬ。
疑問《うたがひ》に悲しみ亂れ、
わが泣けば馴寄《なよ》り水|如《な》し、
『吾子《あこ》よ、吾《あ》ぞ。」(夜は二時ならし。)
『汝《な》が母。』と――青き顏しぬ。


 乳母の墓


あかあかと夕日てらしぬ。
そのなかに乳母と童と
をかしげに墓をながめぬ。

その墓はなほ新らしく、
畑中の南瓜の花に
もの甘くしめりにほひき。

乳母はいふ、『こはわが墓』と、
『われ死なばここに彫りたる
おのが名の下闇《したやみ》にこそ。』

三歳《みとせ》のち、乳母はみまかり、
そのごともここに埋《う》もれぬ。
さなり、はや古びし墓に。

あかあかと夕日さす野に、
南瓜花《かぼちやばな》をかしき見れば
いまもはた涙ながるる。
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生の芽生
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 石竹の思ひ出


なにゆゑに人々《ひとびと》の笑ひしか。
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚《いとけな》き三歳《さんさい》のむかしなれば。

暑き日なりき。
物音もなき夏の日のあかるき眞晝なりき。
息ぐるしく、珍らしく、何事か意味ありげなる。

誰《た》が家か、われは知らず。
われはただ老爺《ヂイヤン》の張れる黄色かりし提燈《ちやうちん》を知る。
目のわろき老婆《バン》の土間にて割《さ》きつつある
青き液《しる》出す小さなる貝類のにほひを知る。

わが惱ましき晝寢の夢よりさめたるとき、
ふくらなる或る女の兩手は
彈機《ばね》のごとも慌《あは》てたる熱《あつ》き力もて
かき抱き、光れる掾側へと連れゆきぬ。
花ありき、赤き小さき花、石竹の花。

無邪氣なる放尿…………
幼兒は靜こころなく凝視《みつ》めつつあり。
赤き赤き石竹の花は痛《いた》きまでその瞳にうつり、
何ものか、背後《うしろ》には擽《こそば》ゆし、繪艸紙の古ぼけし手觸《てざはり》にや、

なにごとの可笑《をかし》さぞ。
數多《あまた》の若き漁夫《ロツキユ》と着物《きもの》つけぬ女との集まりて、
珍らしく、恐ろしきもの、
そを見むと無益にも靈《たまし》動かす。

柔らかき乳房もて頭《かうべ》を厭され、
幼兒は怪しげなる何物をか感じたり。
何時《いつ》までも何時までも、五月蠅《うるさ》く、なつかしく、やるせなく、
身をすりつけて女は呼吸《いき》す、
その汗の臭《にほひ》の強さ、くるしさ、せつなさ、
恐ろしき何やらむ背後《うしろ》にぞ居れ。

なにゆゑに人々《ひと/″\》の笑ひつる、
われは知らず、
え知る筈なし、
そは稚き三歳の日のむかしなれば。

暑き日なりき、
物音もなき鹹河《しほがは》の傍《そば》のあかるき眞晝なりき。
蒸すが如き幼年の恐怖《おそれ》より
尿《いばり》しつつ…………われのただ凝視《みつ》めてありし
赤き花、小さき花、目に痛《いた》き石竹の花。


 幽靈


覺醒《めさ》むれば
しんしんと水の音《ね》近し、
わが乳母の心音《しんのん》かそは
夜《よ》は暗く……耳鳴
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