めて放尿してゐる、おつとりとした懷かしい風俗を畫いたものであつた。私はそのかげで毎夜美くしい姉上や肥滿《ふと》つた氣の輕るい乳母と一緒に眠るのが常であつた。
 頑固で、何時もむつつりした、舊い家から滅多に外へも出た事はなく、流行唄のひとつすら唄へなかつた私の父にも矢張り氣まぐれな道樂はあつた。あの陰氣な稻荷の巫女《みこ》や、天狗使ひや、(A+B)2[#「2」は上付き小文字] ………などの方程式で怪しい占ひをした漂浪者や、護摩《ごま》を焚く琵琶法師やを滯留さしては、いろいろな不思議を信じた行爲の閑暇《ひま》にはまた七面鳥を朱欒《ザボン》のかげに放ち、二三百の白い鉢に牡丹を開かせ、鷄を飼ひ、薔薇を植ゑる事を忘れなかつた。さうして樣々に飽きはてては年毎にその對手を替へた。鷄を鵞に替え、朝顏のために前の薔薇を根こそぎ棄てて了つた。さうして遂にはちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]に豚小屋まで設けたほど、凡てが投げやりであつた。
 私はまた五島平土《ごとうひらど》の船頭衆から長崎や島原の歌も聞いた。年の師走には市が立つてそれらの珍客を載せた大船はいつも四十艘五十艘と港入りした。酒造《さけつくり》のほかに何の物音もしなかつた沖ノ端の街は急に色めき渡つて再び戰《いくさ》のやうな「古問屋《ふつどひや》の師走業《しはすご》」がはじまる。さうしてこの家の舊い習慣として、その前後に催さるる入船出船の酒宴《さかもり》には長崎の紅い三尺手拭を鉢卷にして、琉球節を唄ふ放恣にして素朴な船頭衆のなかに、柳河のしをらしい藝妓や舞子が頑《かた》くななな主人の心まで浮々するやうに三味線を彈き、太皷を敲《たた》いた。その小さい舞子のなかの美くしい一人を Tonka John はまた何となく愛《いと》しいものに思つた。

   9

 舌出人形の赤い舌を引き拔き、黒い揚羽蝶《あげは》の翅《はね》をむしりちらした心はまたリイダアの版畫の新らしい手觸《てざはり》を知るやうになつた。而してただ九歳以後のさだかならぬ性慾の對象として新奇な書籍――ことに西洋奇談――ほど Tonka John の幼い心を掻き亂したものは無かつた。「埋れ木」のゲザがボオドレエルの「惡の華」をまさぐりながら解《わか》らぬながらもあの怪しい幻想の匂ひに憧がれたといふ同じ幼年の思ひ出のなつかしさよ。
 外目《ほかめ》の祖父は雪の日の爐邊に可哀いい沖ノ端の孫を引きよせながら懷かしさうに佛蘭西式調練の小太皷の囃子を歌つて聽かす外にはまだ穉い子供に何らの讀書の權能をも認めて呉れなかつた。當時民友社ものを耽讀してゐた若い叔父はただ「夢想兵衞胡蝶物語」一册しか自由に讀まして呉れぬ。祖父の書架を飾った古い蘭書の黒皮表紙や廣重や北齋乃至草艸紙の見かへしの澁い手觸り、黄表紙、雨月物語、その他樣々の稗史、物語、探偵奇談、佛蘭西革命小説、經國美談、三國志、西遊記等の珍書は羅曼的な兒童の燃えたつ憧憬の情を嗾かして遂にはかの嚴格なる禁斷を犯かさしむるに到つた。
 私はよく葡萄棚の下に緑いろの日の光を浴びながら新らしい紙の匂ひに親しみ、赤い柿の實の反射にぼやけた草艸紙の平假名を拾つては百舌《もず》の啼く音《ね》をきき耽つた。私は本のひとつひとつの匂ひや色や手觸の異なる毎にそれぞれ特殊なある感覺の悲しみを嗅ぎわけた。私は梨の木に上つて果實の甘い液にナイフの刄《は》をつける時も、ゐもりの赤い腹を恐れて芝くさのほめきに身をひたす時も、赤《あか》ん谷の婆(母の乳母で髪の白いなつかしい老婆だつた)のところに山桃《やんもも》採りにゆく時にも、絶えず何らかの稗史を手にしないことは無かつた。私はたゞ感動し、昂奮し、あらゆる稚い空想に耽つた。
 ある日の午後圓い玉葱の花に黄色い日光が照りつけて、晝の蟲が幽かにパツチパツチと鳴いてゐる時、私はその上の丘の芝生に寢ころびながら初めて自分の身體から沁み出る強い汗の臭を知つた。さうして軟風のいらいらと葱の臭を吹きおくるたびに私はある異常な靈の壓迫を感じた。かういふ日が續いて私は遂に激しい本能の衝動に驅られた。さうしてその日から非常に晝の太陽を恐るるやうになつた。
 愈「春の覺醒《めざめ》」の時代が來た。さうして赤い青い書籍の手觸りに全官感を慄かしてゐた私はまたその以外の新らしい世界を發見し得た恐怖《おそれ》と喜びに身も靈も顫はしながら燃えたつ瞳に凡てのものを美くしく苦るしくさうして哀しく、寂しく感じ得るやうになつた。さはいへ、私もまた喜怒哀樂の情の激しい一面に極めて武士的な正義と信實とを尊ぶ清らかな母の手に育てられて、一時は強ひて山羊の血の交じつた怯懦な心に酒を恐れ煙草を惡み、單に懷中鏡を持つてゐたといふ丈けで友人と絶交しかけたほど僞善的な十四の春を迎へた。さうして何時までも女を恐れた。淫らな水郷
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