》の隣に越太夫という義太夫の師匠が何時も氣輕な肩肌ぬぎの婆さんと差向ひで、大きな大きな提燈を張り代へながら、極彩色で牡丹に唐獅子や、櫻のちらしなどをよく描いてゐた藁葺きの小店と、それと相對して同じ樣な生鼠壁の舊家が二つ並んでゐる。何れも魚問屋で右が醤油を造り、左が酒を造つた。その酒屋の、私は Tonka John(大きい坊ちやん、弟と比較していふ、阿蘭陀訛か。)である。して、隣は矢張り祖父時代に岐れた北原の分家で、後には醤油釀造を止した。
南町の私の家を差覗く人は、薊や蒲公英《たんぽぽ》[#「蒲公英」は底本では「蒲生英」]の生えた舊い土藏づくりの朽ちかゝつた屋根の下に、澁い店格子を透いて、銘酒を滿たした五つの朱塗の樽と、同じ色の桝のいくつかに目を留めるであらう。さうしてその上の梁《はり》の一つに、紺色の可憐な燕の雛が懷かしさうに、牡丹いろの頬をちらりと巣の外に見せて、ついついと鳴いてゐる日もあつた。土間は廣く、店全幅《みせいつぱい》の藥種屋式《やくしゆやしき》の硝子戸棚には曇つた山葵色《わさびいろ》の紙が張つて、その中《なか》ほどの柱に阿蘭陀渡の古い掛時計が、まだ正確に、その扉の繪の、眼の青い、そして胸の白い女の横顏のうへに、チクタクと秒刻の優しい歩みを續けてゐた。その戸棚を開けると緑礬、硝石、甘草、肉桂、薄荷、どくだめの葉、中には賣藥の版木等がしんみりと交錯《こんがら》がつた一種異樣の臭を放つ。それはある漂浪者がこゝに來て食客をしてゐた時分密かに町の人に藥を賣つてゐたのが、逝《な》くなつたので、そのまゝにしてあるといふ、舊い話であらう。
庭には無論朱欒の老木が十月となれば何時も黄色い大きな實をつけた。その後の高い穀倉に秋は日ごとに赤い夕陽を照りつけ、小流を隔てゝ十戸ばかりの並倉に夏の酒は濕つて悲しみ、温かい春の日のぺんぺん草の上に桶匠《おけなわ》は長閑に槌を鳴らし、赤裸々《あかはだか》の酒屋男《さかやをとこ》は雪のふる臘月にも酒の仕込《しこ》みに走り囘り、さうして街の水路から樋をくぐつて來るかの小《ちひ》さい流《ながれ》は隱居屋の涼み臺の下を流れ、泉水に分れ注ぎ、酒桶を洗ひ眞白な米を流す水となり、同じ屋敷内の瀦水に落ち、ガメノシユブタケ(藻の一種)の毛根を幽かに顫はせ、然《しか》るのち、ちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]の菜園を一|周囘《めぐり》して貧《まづ》しい六騎《ロツキユ》の厨裏《くりやうら》に濁つた澱みをつくるのであつた。そのちゆうまえんだ[#「ちゆうまえんだ」に傍点]はもと古い僧院の跡だといふ深い竹藪であつたのを、私の七八歳のころ、父が他から買ひ求めて、竹藪を拓き野菜をつくり、柑子を植ゑ、西洋草花を培養した。それでもなほ晝は赤い鬼百合の咲く畑に夜《よる》は幽靈の生《なま》じろい火が燃えた。
世間ではこの舊家を屋號通りに「油屋」と呼び、或は「古問屋《ふるどんや》」と稱へた。實際私の生家は此六騎街中の一二の家柄であるばかりでなく、酒造家としても最も石數高く、魚類の問屋としては九州地方の老舖として夙《つと》に知られてゐたのである。從て濱に出ると平戸《ひらど》、五島、薩摩、天草、長崎等の船が無鹽、鹽魚、鯨、南瓜《ボウブラ》、西瓜、たまには鵞鳥、七面鳥の類まで積んで來て、絶えず取引してゐたものだつた。さうして魚市場の閑な折々《をり/\》は、血のついた腥くさい甃石《いしだゝみ》の上で、旅興行の手品師が囃子おもしろく、咽喉を眞赤に開《あ》けては、激しい夕燒の中で、よく大きな雁首の煙管を管いつぱいに呑んで見せたものである。
私はかういふ雰圍氣の中で何時も可なり贅澤な氣分のもとに所謂油屋の Tonka John として安らかに生ひ立つたのである。
4
私の第二の故郷は肥後の南關であつた。南關は柳河より東五里、筑後境の物靜かな山中の小市街である。その街の近郊|外目《ほかめ》の山あひに恰も小さな城のやうに何時も夕日の反照をうけて、たまたま舊道をゆく人の瞻仰の的となつた天守造りの眞白な三層樓があつた。それが母の生れた家であって、數代この近郷の尊敬と素朴な農人の信望とをあつめた石井家の邸宅であった。
私もまたこの小さな國の老侯のやうに敬はれ、侍《かしづ》かれ、慕はれて、餘生を讀書三昧に耽つた外祖|業隆《なりたか》翁の眞白な長髯のなつかしさを忘るる事が出來ぬ。私は土地の習慣上實はこの家で生れて――明治十八年二月二十五日――然る後古めかしい黒塗の駕籠に乘つて、まだ若い母上と柳河に歸つた。
私は生れて極めて虚弱な兒であつた。さうして癇癪の強い、ほんの僅かな外氣に當るか、冷たい指さきに觸《さは》られても、直ぐ四十度近くの高熱を喚び起した程、危險極まる兒であつた。石井家では私を柳河の「びいどろ罎」と綽名した位、殆ど
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