たるその頬をばつねるとき、
わが指はふたつなき諧樂《シムフオニ》を生み、
いと赤き血を見れば、泣聲のあふれ狂へば、
わがこころはなつかしくやるせなく戲《たは》れかなしむ。

思ひいづるそのかみのTYRANT.
狂ほしきその愉樂《ゆらく》…………
今もまた匂高き外光の中
あかあかと二人して落すザボンよ。
その庭のそのゆめの、かなしみのゆかしければぞ、
弟よ、
かかる日は喧嘩《いさかひ》もしき。


 幻燈のにほひ


わが友よ、わが過ぎし少年の友よ、
汝《な》は知るや、なつかしき幻燈の夜を、
ほの青きほの青き雪の夜景を、――
水車《みづぐるま》しづかにすべり、霏々として綿雪のふる。

ふりつもる異國の雪は陰影《かげ》の雪、おもひでの雪。
いつしかと眼に滅《き》えぬべきかなしみの映畫《えいぐわ》なれども、
その夜には
小《ちい》さなる女の友の足のうら指につめたく、
チクタクと薄き時計もふところに針を動かす…………

いとけなきわれらがゆめに絶間《たえま》なくふりつもる雪。
ふりつもる「時」の沈默《しじま》にうづもれて滅《き》ゆる昨日《きのふ》よ。
淡《あは》つけきわが初戀のかなしみにふる雪は薄荷《はつか》の如く、
水車しづかにすべり、ピエローは泣きてたどりぬ。

ほの青きほの青き幻燈の雪の夜景に
われはまた春をぞ思ふ、
マンドリン音《おと》をひそめしそのあとの深き恐怖《おそれ》に、
ふりつもる雪、ふりつもる雪、…………ゆゑわかぬ性の芽生は
青猫の耳の顫へをわが膝に美くしみつつ。


 雨のふる日


わたしは思ひ出す。
緑青《ろくしやう》いろの古ぼけた硝子戸棚を、
そのなかの賣藥の版木と、硝石の臭《にほひ》と、…………
しとしとと雨のふる夕かた、
濡れて歸る紺と赤との燕《つばくらめ》を、

しとしとと雨のふる夕かた、
蛇目《じやのめ》傘を斜《はす》に疊んで、
正宗を買ひに來た年増《としま》の眼つき、…………
びいどろの罎を取つて
無言《だま》つて量《はか》る…………禿頭《はげあたま》の番頭。

しとしとと雨のふる夕かた、
巫子《みこ》が來て振り鳴らす鈴《すゞ》…………
生鼠壁《なまこかべ》の黴《かび》に觸《さは》る外面《おもて》の
人靈《ひとだま》の燐光。

わたしは思ひ出す。
しとしとと雨のふる夕かた、
叉首《あいくち》を拔いて
死なうとした母上の顏、
ついついと鳴いてゐた紺と赤との燕《つばくらめ》を。


 BALL


柚子《ゆず》の果《み》が黄色く、
日があかるく、
さうして熱《あつ》い BALL.

觸《ふ》れ易いこころの痛《いた》さ、
何がなしに
握りしむる BALL.

投げるとき、
やはらかな掌《てのひら》に、
なつかしい汗が光り…………

受けるとき、
しみじみと抱く音、
接吻《せつぷん》…………

日が赤く、
柚子《ゆず》の果《み》が黄色く、
何處《どこ》かで糸操りの車。

なつかしい少年のこころに
圓い、軟《やはら》かな BALLの
やるせなさ…………

柚子《ゆず》の果《み》が黄色く、
日があかるく、
さうして投げかはす BALL.


 尿する和蘭陀人


尿《いばり》する和蘭陀人…………
あかい夕日が照り、路傍の菜園には、
キヤベツの新らしい微風、
切通のかげから白い港のホテルが見える。

十月の夕景か、ぼうつと汽笛のきこゆる。
なつかしい長崎か、香港《ホンコン》の入江か、葡萄牙《ポルトガル》?佛蘭西?
ザボンの果《み》の黄色いかがやき、
そのさきを異人がゆく、女の赤い輕帽《ボンネツト》…………

尿《いばり》する和蘭陀人…………
そなたは何を見てゐる、彎曲《ゆみなり》の路から、
斷層面の赤いてりかへしの下から、
前かがみに腰をかがめた、あちら向きの男よ。

わたしは何時も長閑《のどか》な汝《そなた》の頭上から、
瀟洒な外輪船《ぐわいりんせん》の出てゆく油繪の夕日に魅《み》せられる。
病氣のとき、ねむるとき、さうして一人で泣いてゐる時、
ほんのしばらく立ちどまり、尿する和蘭陀人のこころよ。


 水中のをどり


色あかきゐもりの腹のひとをどり、
水の痛《いた》さにひとをどり。
腹の赤さは血のごとく、
水の痛《いた》さは石炭酸を撒《ふ》るごとし。

時は水無月、日は眞晝、
ゐもりの小さきみなし兒は
尻尾《しつぽ》もふらず、掌《て》も開《あ》かず、
たつた、ふたつの眼を開《あ》けて
ついとかへりぬひとをどり…………

風はつめたく、山ふかく、
青い松葉が針のごと光りて落つるたまり水。

色あかきゐもりの腹のひとをどり、
水の痛さにひとをどり。


 怪しき思


われは探しぬ、色黒き天鵞絨《びろうど》の蝶、
日ごと夜ごとに針《ピン》を執り、テレピンを執り、
かくて殺しぬ、突き刺しぬ、ちぎり、なすりぬ。

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