《く》る音《おと》。
わかれ路《みち》、辻《つじ》の濃霧《こぎり》は
馬やどののこるあかりに
幻燈《げんとう》のぼかしのごとも
蒸し青《あを》み、破《や》れし土馬車《つちばしや》
ふたつみつ泥《どろ》にまみれて
ひそやかに影を落《おと》しぬ。
泥濘《ぬかるみ》の物の汗《あせ》ばみ
生《なま》ぬるく、重き空気《くうき》に
新しき木犀《もくせい》まじり、
馬槽《うまぶね》の臭気《くさみ》ふけつつ、
懶《もの》うげのさやぎはたはた
暑《あつ》き夜《よ》のなやみを刻《きざ》む。
足音《あしおと》す、生血《なまち》の滴《した》り
しとしととまへを人かげ、
おちうどか、ほたや、六部《ろくぶ》か、
背《せ》に高き龕《みづし》をになひ、
青き火の消えゆくごとく
呻《うめ》きつつ闇にまぎれぬ。
生騒《なまさや》ぎ野をひとわたり。
とある枝《え》に蝉は寝《ね》おびれ、
ぢと嘆《なげ》き、鳴きも落つれば
洞《ほら》円《まろ》き橋台《はしだい》のをち、
はつかにも断《き》れし雲間《くもま》に
月|黄《き》ばみ、病める笑《わら》ひす。
夜《よ》の汽車の重きとどろき。
凄まじき驟雨《しゆうう》のまへを、
黒烟《くろけぶり》深《ふか》き峡《はざま》は
一面《いちめん》に血潮ながれて、
いま赤く人|轢《し》くけしき。
稲妻す。――嗚呼|夜《よ》は一時《いちじ》。
[#地付き]三十九年九月
解纜
解纜《かいらん》す、大船《たいせん》あまた。――
ここ肥前《ひぜん》長崎港《ながさきかう》のただなかは
長雨《ながあめ》ぞらの幽闇《いうあん》に海《うな》づら鈍《にぶ》み、
悶々《もんもん》と檣《ほばしら》けぶるたたずまひ、
鎖《くさり》のむせび、帆のうなり、伝馬《てんま》のさけび、
あるはまた阿蘭船《おらんせん》なる黒奴《くろんぼ》が
気《き》も狂《くる》ほしき諸ごゑに、硝子《がらす》切る音《おと》、
うち湿《しめ》り――嗚呼《ああ》午後《ごご》七時――ひとしきり、落居《おちゐ》ぬ騒擾《さやぎ》。
解纜《かいらん》す、大船あまた。
あかあかと日暮《にちぼ》の街《まち》に吐血《とけつ》して
落日《らくじつ》喘《あへ》ぐ寂寥《せきれう》に鐘鳴りわたり、
陰々《いんいん》と、灰色《はいいろ》重き曇日《くもりび》を
死を告《つ》げ知らすせはしさに、響は絶《た》えず
天主《てんしゆ》より。――闇
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