m#地付き]四十一年十二月
麦の香
嬰児《あかご》泣く……麦の香《か》の湿《しめ》るあなたに、
続《つゞ》け泣く……やはらかに、なやましげにも、
香《か》に噎《むせ》び、香《か》に噎《むせ》び、あはれまた、嬰児《あかご》泣きたつ……
夏の雨さと降《ふ》り過《す》ぎて
新《あらた》にもかをり蒸《む》す野の畑《はた》いくつ湿《しめ》るあなたに、
赤き衣《きぬ》一《ひと》きは若《わか》く、にほやかにけぶる揺籃《ゆりご》や、
磨硝子《すりがらす》、あるは窓枠《まどわく》、濡《ぬ》れ濡《ぬ》れて夕日《ゆふひ》さしそふ。
[#地付き]四十一年十二月
曇日
曇日《くもりび》の空気《くうき》のなかに、
狂《くる》ひいづる樟《くす》の芽《め》の鬱憂《メランコリア》よ……
そのもとに桐《きり》は咲く。
Whisky《ウイスキイ》 の香《か》のごときしぶき、かなしみ……
そこここにいぎたなき駱駝《らくだ》の寝息《ねいき》、
見よ、鈍《にぶ》き綿羊《めんやう》の色のよごれに
饐《す》えて病《や》む藁《わら》のくさみ、
その湿《しめ》る泥濘《ぬかるみ》に花はこぼれて
紫《むらさき》の薄《うす》き色|鋭《するど》になげく……
はた、空《そら》のわか葉《ば》の威圧《ゐあつ》。
いづこにか、またもきけかし。
餌《ゑ》に饑《う》ゑしベリガンのけうとき叫《さけび》、
山猫《やまねこ》のものさやぎ、なげく鶯《うぐひす》、
腐《くさ》れゆく沼《ぬま》の水|蒸《む》すがごとくに。
そのなかに桐は散《ち》る…… Whisky《ウイスキイ》 の強きかなしみ……
もの甘《あま》き風のまた生《なま》あたたかさ、
猥《みだ》らなる獣《けもの》らの囲内《かこひ》のあゆみ、
のろのろと枝《え》に下《さが》るなまけもの、あるは、貧《まづ》しく
眼《め》を据《す》ゑて毛虫《けむし》啄《つ》む嗟歎《なげかひ》のほろほろ鳥《てう》よ。
そのもとに花はちる……桐のむらさき……
かくしてや日は暮《く》れむ、ああひと日。
病院《びやうゐん》を逃《のが》れ来《こ》し患者《くわんじや》の恐怖《おそれ》、
赤子《あかご》らの眼《め》のなやみ、笑《わら》ふ黒奴《くろんぼ》
酔《ゑ》ひ痴《し》れし遊蕩児《たはれを》の縦覧《みまはり》のとりとめもなく。
その空《そら》に桐《きり》はちる……新《あたら》しきしぶき、
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