命の家のよろこびを古いソンネツトの形式に寄せたやうに私も奔放自由なシムフオニーの新曲に自己の全感覚を響かすあとから、寥しい一絃の古琴を新らしい悲しい指さきでこころもちよく爪弾きしたところで少しも差支へはない筈だ。市井の俗人すらその忙がしい銀行事務の折折には一鉢のシネラリヤの花になにとはなきデリケエトな目ざしを送ることもあるではないか。私はそんな風に短歌の匂に親しみたいのである。
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その小さい緑の古宝玉はよく香料のうつり香の新しい汗のにじんだ私の掌にも載り、ウイスキイや黄色いカステラの付いた指のさきにも触れる。而して時と処と私の気分の相違により、ある時は桐の花の淡い匂を反射し、また草わかばの淡緑にも映り、或はあるかなきかの刺のあとから赤い血の一滴をすら点ぜられる。
私は無論この古宝玉の優しい触感を愛してゐる。而巳《(しかのみ)》ならず近代の新しいそして繊細な五官の汗と静こころなき青年の濃《(こまや)》かな気息に依て染々《(しみじみ)》とした特殊の光沢を附加へたいのである。併し私はその完成された形の放つ深い悲哀を知つてゐる。実際完成されたものほどかなしいものはあるまい。四十過ぎた世帯くづしの仲居が時折わかい半玉のやうなデリケエトな目つきするほどさびしく見られるものはない。わかい人のこころはもつと複雑かぎりなき未成の音楽に憧がれてゐる。マネにゆき、ドガにゆき、ゴオガンにゆき、アンドレエエフにゆき、シユトラウス、ボオドレエル、ロオデンバツハの感覚と形式にゆく。かの小さな緑玉《エメロウド》の古色は私がそれらの強烈な色彩の歓楽に疲れたとき、やるせない魂《たましひ》の余韻を時としてしんみりと指の間から通はすだけの事である。即かりそめの病に飲む一杯の古いシヤンペンの味である。
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私の哀しい Nostalgia がまた一絃の古琴にたまたま微かな月光の如くつかずはなれず付纏ふ時に、ある若い人達の集団はこれを唯一の楽器として、行住座臥、凡ての清新な情緒《センチメント》と凡ての苦い神経の悦楽とを委ねて満足してゐる。新人の悲哀は古い詠嘆の絃にのぼせて象徴の世界を観照すべくあまりに複雑であり、深刻であり、而《(し)》かも而かも傷ましいほど痛烈である、わが友よ、古い楽器の悲哀を知れ。さうしてその幽かな哀調の色に執し過ぎて些かだにその至醇なる謙譲の美徳を傷つく
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