タカツキムラノであったのを、槻落葉《つきのおちば》でタカツキノムラと訓み、「高く槻の木の生たる木群《こむら》をいふ成《なる》べし」といって学者多くそれに従ったが、生田耕一氏が、高は山城国|綴喜《つづき》郡多賀郷のタカで、今の多賀・井手あたりであろうという説をたて、他の歌例に、「山城の泉《いづみ》の小菅」、「山城の石田《いはた》の杜《もり》」などあるのを参考し、「山城の高《たか》の槻村」だとした。爾来《じらい》諸学者それを認容するに至った。
 一首の意は、もっと早く来て見れば好かったのに、今来て見れば此処の山城の高《たか》という村の槻の林の黄葉《もみじ》も散ってしまった、というので、高(多賀郷)の槻の林というものはその当時も有名であったのかも知れない。或は高というのは郷の名でも、作者の意識には、「高い槻の木」ということをほのめかそうとしたのであったのかも知れない。そうすれば、従来槻落葉の説に従って味って来たようにして味うことも出来る。この歌では、「山城の高の槻村散りにけるかも」という詠歎が主眼なのだが、沁みとおるような響が無い。また、「疾く来ても見てましものを」と云っても、いかにもあっさ
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