念珠集
斎藤茂吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)維也納《ウインナ》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)首府|民顕《ミユンヘン》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「二点しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]

 [#…]:返り点
 (例)治[#二]寒痰咳嗽[#一]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)皆 〔Pra:putium〕 などが
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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    1 八十吉

 僕は維也納《ウインナ》の教室を引上げ、笈《きふ》を負うて二たび目差すバヴアリアの首府|民顕《ミユンヘン》に行つた。そこで何や彼や未だ苦労の多かつたときに、故郷の山形県|金瓶村《かなかめむら》で僕の父が歿《ぼつ》した。真夏の暑い日ざかりに畑《はたけ》の雑草を取つてゐて、それから発熱《ほつねつ》してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大《おほ》地震のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
 僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出《おもひで》が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉《やそきち》』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠《ねんじゆ》の珠《たま》の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。
 八十吉は父の『お師匠様』の孫で、僕よりも一つ年上の童《わらべ》であつたが、八十吉が僕のところに遊びに来ると父はひどく八十吉を大切にしたものである。読書《よみかき》がよく出来て、遊びでは根木《ねつき》を能《よ》く打つた。その八十吉は明治廿五年旧暦六月二十六日の午《ひる》すぎに、村の西方をながれてゐる川の深淵《しんえん》で溺死《できし》した。
 そのときのことを僕はいまだに想浮《おもひうか》べることが出来る。その日は村人の謂《い》ふ『酢川落《すかお》ち』の日で、水嵩《みづかさ》が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝《つき》当つてそこに一つの淵《ふち》をなしてゐたのを『葦谷地《よしやぢ》』と村人が称《とな》へて、それは幾代《いくだい》も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯《さかのぼ》ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻《ろてき》の類が繁《しげ》つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣《ほしいまま》に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕《しんしよく》されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切《よしきり》がかしましく啼《な》いてゐるこゑが今僕の心に蘇《よみがへ》つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝《くろ》ずんだ青い水を湛《たた》へて幾何《いくばく》深いか分からぬやうな面持《おももち》をして居つた。
 瞳《ひとみ》を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡《みなわ》が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦《たと》ひ大人であつてもそこから余程|川下《かはしも》の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌《てのひら》を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹《とほ》るやうな砂であるから、水遊《みづあそび》する童幼《どうえう》は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競《ひろひくら》をしたりするのであつた。
 旧暦の六月廿六日は『酢川落《すかお》ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰《あたか》も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸《しがい》となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出《い》づるところにかたまつて喘《あへ》いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭《かしら》
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