つて、また三十分間ぐらゐも経つた頃であつたらうか。一人の若者がたうとう八十吉を肩にかついで水面に浮上つて来た。若者は何か鋭く叫んで、その肩には生白い人の体がぶらさがつて、首の方がだらりとして腕などは日にからびた葱《ねぎ》の白いところを見るやうな、さういふ光景が電光のごとくに僕に見えた。
『お関の婿だ。あれあ』
『お関の婿あ八十吉を見つけた』
かういふこゑが聞こえた。お関は村はづれに小さい店を開いてそこで揚物だの蒟蒻《こんにやく》煮などを売つてゐた。八十吉を引上げたお関の婿といふのはそこへ他村から入婿に来た若者のことであつた。この若者は其《そ》の数年後隣村の火事に消防に行つて身を挺《ぬき》んじて働いたとき倉の鉢巻が落ちてつひに死んだ。八十吉が水の中からやうやく上つてから暫くは、人間の重苦しい鋭い一種の叫びごゑがそのあたり一帯にきこえて居たが、間もなく元の静寂に帰つた。
蔵王山《ざわうさん》の麓《ふもと》に湧出《わきで》る硫黄泉の湯尻《ゆじり》が、一つの大きい滝瀬をなして流れてゐる。それが西に向つて里へ里へと流れ下つて、金瓶村の東境《ひがしざかひ》に出るとそこから急に折れて北へ向つて流れる。此《こ》の川の川原《かはら》の石はいつも白い様な色合を帯びてゐて水苔《みづごけ》一つ生えない。清く澄んだ流であるが味が酸いので魚も住まず虫のたぐひも卵一つ生むことをしない。又この水を田に引くと稲作《いなさく》に害があるので、百姓にとつて此の川は一つの毒川だと謂《い》つてよい。これを酢川《すかは》と何時《いつ》の頃からか名づけて来た。それから、金瓶村の西方を流れる川は米沢境《よねざはさかひ》の分水嶺から出てくるもので、山形の平野に出てから遂に最上川に入るのであるが、これは淡水であつて多くの魚類を住まはせてゐる。然《しか》るに昔、雨降の後に洪水《おほみづ》が出た時、村の東境まで西へ向つて流れて来た酢川が、北へ折れる処で北へ折れずにそこを突破したから、村の西方を北へ流れてゐる淡水の川に、酢川の水が混つてしまつた。いはば西洋文字のHの様な恰好《かつかう》になつたのである。すると其の川に住んでゐる魚族が一度にむらがり死ぬといふ現象が起つた。さういふ害のある水が淡水の川に混つては困るから、村では破れたところに堤防を築いてその混入を防いだのである。然るにいつの頃からであらうか。時代はずつとずつ
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