みづかさ》が大分ふえてゐた。川上の方から瀬をなしてながれて来る水が一たび岩石と粘土からなる地層に衝《つき》当つてそこに一つの淵《ふち》をなしてゐたのを『葦谷地《よしやぢ》』と村人が称《とな》へて、それは幾代《いくだい》も幾代も前からの呼名になつてゐた。目をつぶつておもふと、日本の東北の山村であつても、徳川の世を超え、豊臣、織田、足利から遠く鎌倉の世までも溯《さかのぼ》ることが出来るであらう。『葦谷地』といふから、そのあたり一面に蘆荻《ろてき》の類が繁《しげ》つてゐて、そこをいろいろの獣類が恣《ほしいまま》に子を連れたりなんかして歩いてゐる有様をも想像することが出来た。明治廿五年ごろには山川の鋭い水の為めにその葦原が侵蝕《しんしよく》されて、もとの面影がなくなつてゐたのであらうが、それでもその片隅の方には高い葦が未だに繁つてゐて、そこに葦切《よしきり》がかしましく啼《な》いてゐるこゑが今僕の心に蘇《よみがへ》つて来ることも出来た。その広々とした淵はいつも黝《くろ》ずんだ青い水を湛《たた》へて幾何《いくばく》深いか分からぬやうな面持《おももち》をして居つた。
 瞳《ひとみ》を定めてよく見るとその奥の方にはゆつくりまはる渦があつて、そのうへを不断の白い水泡《みなわ》が流れてゐる。その渦の奥の奥が竜宮まで届いて居るといつて童どもの話し合ふのは、彼等の親たちからさう聞かされてゐるためであつて、それであるから縦《たと》ひ大人であつてもそこから余程|川下《かはしも》の橋を渡るときに、信心ふかい者はいつもこの淵に向つて掌《てのひら》を合せたものである。その淵も瀬に移るところは浅くなつてその底は透き徹《とほ》るやうな砂であるから、水遊《みづあそび》する童幼《どうえう》は白い小石などを投げ入れて水中で目を明いてそれの拾競《ひろひくら》をしたりするのであつた。
 旧暦の六月廿六日は『酢川落《すかお》ち』の日であつたけれども、もう午過ぎであるから多くの人は散じてしまつて、恰《あたか》も祭礼のあとの様な静かさが川の一帯を領して居た。弱くて小さい魚は死骸《しがい》となつて川の底に沈み、なかには浮いて流れてゐるのもある。割合に身が大きく命を取留めた魚は川下に下れる限り下つたのもあり、あるものは真水の出《い》づるところにかたまつて喘《あへ》いでゐるのもある。さういふ午過ぎに十四ぐらゐを頭《かしら》
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