かつた。僕は事件のあつた時父の背中で声を立てて泣いたことをおぼえてゐる。
僕は明治四十二年に熱を病んで、赤十字病院の分病室にゐたときに、終日少年の頃の回想に耽《ふけ》つたことがある。そしてなぜあの時、人力車夫が梶棒をあんなにひどく突当てたであらうと考へたことがある。この文章を書いてゐる現在の僕がやはりそのことを思ふのと同じであつた。
この街道の開通されるまでは、小山を幾つも越えて漸《やうや》く上山《かみのやま》に行著《ゆきつ》くのであつた。そこは如何《いか》にも寂しい山道で、夜遊《よあそび》に上山まで行く若者が時々道が分からなくなつて終夜そのあたりをさまよふといふやうなことがあつた。上山から魚を買つて夜道すると屹度《きつと》道が分からなくなるといふこともいはれた。夜更けてから、ほうい、ほうい、といふこゑがその山道あたりから聞こえるのはさう稀《まれ》なことではなかつた。
一つの小山の中腹に大きな石が今でもある。それを狼石《おほかみいし》と称《とな》へてゐるのはそこには狼が住んでゐて子を生むと、村の人が食べ物を持つて行つてやる。小さい狼の子が出て来て遊ぶといふやうなことがあつて、夜半などに鋭い狼のこゑがよく聞こえたものださうである。その石の近くを上山へ行く山道が通つてゐた。この山道には狐狸《こり》の変化《へんげ》に関する事件がなかなか多く、母も度々さういふ話をした。
そこへ御一新《ごいつしん》が来、開化のこゑがかういふ山の中にも這入《はひ》つて来るやうになつた。三島《みしま》県令が赴任するとたうとう小山の中腹を鑿開《きりひら》いて山形から上山を経て米沢《よねざは》の方へ通ずる大街道が出来た。早坂新道と村の人が称《とな》へたのはこの新道である。この新道は僕の生れるずつと前に開通されたものだが、連日の人足《にんそく》で村の人々の間にも不平の声が高かつた。ある時、県令の臨場《りんぢやう》の際に人足に寝そべつてゐる者のあるのを役人が咎《とが》めると、『人としてねぶたきことはあるものを吾《われ》にはゆるせ三島県令』といふ一首を差上げたなどといふ逸話も伝へられた。その男は僕が東京に来てからも年取つて未だ存命して居つたが余程前に亡くなつた。
さて新道が出来ると人力《じんりき》が通る。荷車は干魚《ほしうを》などを積んで通る。郵便|脚夫《きやくふ》が走る。後には乗合馬車《のりあ
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