、『ちよつと其《それ》を書いて置きませうか』と云つて、それから不二子さんもそれをすすめると、『書いちやいかん。それだでこまる』『みどころを取つて行かれるやうだ』と云つたさうである。
そのうち腰の痛みが出て来た。『水脈《みを》坊水脈坊。お客様がゐていやかも知れんがおさへて呉れなくちや』と云つた。それから、『飲物《のみもの》も食物《たべもの》も皆さげてくれ。目のまへにあると溜《た》まらんから』と云つたさうである。その時|按摩《あんま》が来たので皆が部屋を退いた。その時古実君に、『訂正を送つて呉れたか』と云つた。『はい、送りました』と答へると『確《たしか》だな』と念を押したさうである。この訂正といふのは、雑誌改造に出した、『風呂桶《ふろをけ》に触《さは》らふ我の背の骨のいたくも我は痩《や》せにけるかな』の下《しも》の句を『斯《か》く現れてありと思へや』と直し、憲吉・古実君の意見をも徴して、其をアララギの原稿にしたのである。それを謂《い》ふのである。尚《なほ》今雑誌を調べて見ると改造に出した歌をアララギでは少しづつ直してゐる。
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信濃路《しなのぢ》に帰り来《きた》りてうれしけれ黄に透りたる茎漬《くきづけ》のいろ (改造)
信濃路に帰り来りてうれしけれ黄に透りたる漬菜《つけな》のいろは (アララギ)
神経の痛みに負けて泣かねども夜毎《よごと》寝られねば心弱るなり (改造)
神経の痛みに負けて泣かねども幾夜《いくよ》寝《い》ねねば心弱るなり (アララギ)
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廿一日夕七時ごろ、古実君との問答がある。
古実『中村さんは明日か明後日《あさつて》帰ると云つてゐました。どうも己《おれ》が行つて赤彦を興奮させて済まなかつたといつてゐました』
赤彦『中村は己《おれ》が相手をしなんで不服らしかつたかな』
古実『そんなことはありません』
赤彦『己は一言《ひとこと》いふにもつかれるのだ』
古実『……』
赤彦『もう一度会ふさ』
古実『それでは明日でもお会《あひ》することにしませう』
かういふ会話などがあつた。それから八時頃かういふことを云つたさうである。『画伯、斎藤、岡、土屋、岩波――五人だなあ。……それへおれの病を君から委《くは》しく書いてやつて呉れ。まだ容態《ようだい》をくはしく書いてやらうとしてゐて書いてやらないから。……身のおきどころがない。……坐つてゐても玉のやうな汗が額から出る。いかんとも為様《しやう》がないとさう書いてくれ。……そして物をいふと、それだけ疲労するから、静かにしてゐると書いて呉れ、医者もさういつてゐるし、それが己には薬だ』かう云つた。古実君は『かしこまりました』といふと、『用件はそれだけ』『あつちで寝て行つて呉れ』と云つた。
その夜の十時頃、妹の田鶴《たづ》さん、不二子さん、水脈《みを》さん、初瀬《はつせ》さん、健次君、丸山君、藤沢君等を部屋に呼び、『おれはなるべく物を云はぬから、そつちでお茶を飲んで呉れ』と云つた。間もなく、辛うじて身を起し、『明治四十一年浅間山へのぼる。雲の海の上にあらはるる信濃のやま上野《かみつけ》のやま下野《しもつけ》の山』『明治四十一年十一月とおぼえておけ。日本新聞に出てゐる』と云つた。
その時、赤彦君のうしろに猫がうづくまつて咽《のど》を鳴らしてゐた。これは赤彦君がいつも猫を可哀がるので傍《そば》に来てゐるのであつた。皆が、猫の話をし、夏樹《なつき》さんの猫をいぢめる話などをしてゐると、赤彦君は、『初瀬、歌の原稿を書け』と云つた。そして、『わが家の猫はいづこに行きぬらむこよひもおもひいでて眠れる』と云つた。暫《しばら》くして、『ちがつた。ちがつた。猫ぢやない。犬だわ』と云つて笑つた。これは数日前に居なくなつた犬のことを気にして咏《よ》んだ歌である。
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わがいへの犬はいづこにゆきぬらむこよひもおもひいでてねむれる
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その後は遂に歌を作らずにしまつた。この歌が赤彦君の最終の吟となつたのであつた。
三
廿二日朝、土屋君は僕を伴《ばん》さんのところに連れて行つて呉れた。僕は初対面の挨拶《あいさつ》をし、初診以来熱心の治療に対して謝した。伴さんはその前にも、赤彦君の病状に就いて委しく通信され、また黄疸のあらはれた三月一日には態々《わざわざ》電話で知らせて呉れたのであつた。午《ひる》過ぎに、平福・岩波・中村・土屋の諸君と伴さんと僕と※[#「柿」の正字、第3水準1−85−57]蔭《しいん》山房に出かけた。
家に入るところの道は霜解《しもどけ》がして靴がぬかつた。松樹《まつのき》はもとの儘《まま》だが、庭は広げられてあつた。大正十年の夏に僕夫婦の一夜|宿《とま》つた部屋には炬燵《こたつ》
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