跡切《とぎ》れ跡切《とぎ》れに、『己《おれ》はな、いかんとも疲労してしまつてなあ。余病のために、黄疸のために、まゐるかも知れん』と云つた。その終の『まゐるかも知れん』のところが急に大ごゑになつて、健康な時の朗々たるこゑを思はせたので、胸がぎくりとしたと古実君が語つた。
 廿一日朝、赤彦君は首《かうべ》をあげて、皆《みんな》に茶を飲みに来るやうに云つた。中村憲吉、藤沢古実、丸山東一、久保田健次の諸君、不二子さん、初瀬さんが集まつた。その時、藤沢君の美術学校卒業製作塑像の写真を見せると、『ありがたう。素直だな。しづかなのは一層むづかしいものだ』と云つたさうである。それから、『どうもな。本病より余病の方がえらいやうだ。斎藤もさう云つて来たよ。伴も同じ意見だ。余病が。余病が余病だけですめばいいが、本病にはとりつけないで』とも云つたさうである。僕は、神保博士の意見として、どうも黄疸は単純な加答児《かたる》性のものでなく肝の方から来てゐることを手紙に書いたのであつた。それでも癌《がん》の転移証状であることは書けなかつたのである。赤彦君はそれゆゑ飽くまで黄疸を余病と看做《みな》し、余病を先づ退治して置いて、そして生きられるだけ生きようと覚悟したのであつた。それであるから、極力友人に会ふことを厭《いと》うて、静かに身を保たむとしたのであつた。赤彦君は四五月の候になれば余病を退治して、今度は楽しく友にも会はうと思つてゐたのである。赤彦君はその夜こんなことをも云つた。『伴さんは本当に熱心だからな。己ははじめは知らなんだ。一遍見て貰《もら》つたらもう伴さんに限るやうになつた』『自分ひとりではと思ふときには屹度《きつと》ほかの人にも相談してなあ』『腕はあるんだからなあ』などとも云つたさうである。

     二

 廿一日に、中村憲吉君は校歌の話を為出《しだ》した。校歌といふのは、秋田県|角館《かくのだて》中学校の校歌を平福百穂画伯から嘱付して赤彦君に作つて貰ふことになつてゐた。それを謂《い》ふのである。すると赤彦君は、『北日本の脊梁《せきりやう》の。千秋|万古《ばんこ》やまのまに。偉霊の水を湛《たた》へたる。田沢の湖《うみ》の水おちて。鰍瀬川《かじかせがは》とながれたり』云々と低いこゑで云ひ、憲吉君の批評をも求め、もう七分どほりは出来てゐることを云つた。その時、藤沢古実君が傍《そば》から
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