《そ》うて上下し、木苺を籠《かご》に丹念に採つて、それを私にも食べさせてくれたのをおぼえて居る。
本居宣長は子ども等が邪魔になると云つて、二階の勉強部屋との遮断《しやだん》を工夫して居るが、私も孫が二階にのぼつて来て邪魔をするので板障子を作り、遮断をするやうにした。それでも日に幾度となくのぼつて来て板障子を叩《たた》く、知らん振をして居ると、孫はしばらく黙つてそこに居るが、到頭あきらめて降りて行く。その気持は何とも『あはれ』である。
この祖父が小用を足して居ると、孫が来てそれをのぞく、世の中の一つの不思議としてのぞいてゐるやうなおもむきである。家族の者は、そんなことをさせないで、叱《しか》りなさいなどと云つたものだが、うつちやつて居るうち、孫はいつのまにか興味が無くなつたと見え、もうのぞかなくなつた。稚童といへども興味などといふものはそんなにつづくものでないものと見える。
近所に根津山といふ丘陵がある。根津家の持山であつたが、戦時中荒れたし、大部分が畑になつた。そこに孫を連れて行くと、孫は通る小田急電車を見て居る。パンタグラフなどといふ語もおぼえて、実に熱心に見て居る。レンケツデンシヤ、キユウコウ、シンチユウグンなどといふことをもおぼえた。
家に居ると、物差し、箸《はし》箱などを電車に見たて、デデンデデンなどといふ音頭を取つて遊んでをる。新宿、代田二丁め、下北沢などといふこともいふ。
さういふことが児童精神発育の階梯《かいてい》となる。弟の方の孫が一々その模倣をする。兄の方が、おぢいちやま、二階にいつちやいけないといふと、弟の方が、すぐそれをおぼえて私に同じことをうつたへる。本邦でも、石川貞吉博士とか、榊保三郎博士とかが、児童精神の発育状態をしらべ、外国の文献にも載つたことがある。
私は元来、食事するときには孤独で食べるのが好きである。猫が物食ふのを見るに、やはり茶ぶ台などの下に隠れて物を食べて居るが、私もあのやうなのが好きである。旅して旅館に行つても、女中に給仕して貰《もら》はない食事が好きである。これはもつと若い時分からであつて、年寄つてからはますますさういふ傾向になつた。さうであるから、孫どもが私の食事に寄つて来て、何の彼《か》のと要求されるとうるさくて敵《かな》はない。うるさいのに、先づ兄が寄つてくる、つづいて弟が寄つてくる。背にかじりついて食べ物を要求する。私の膳から食べものを盗んで食べる。叱つても叱り甲斐《がひ》がない。そこで私は二階に膳を運んで錠をおろし、孤独で食べる。可愛い孫の所做《しよさ》がこんなにうるさいのだから、私はよほど孤独の食事が好きと見える。美女の給仕などを毫《がう》も要求しないのは寧《むし》ろ先天的といはなければならない。
私の孫が幾つぐらゐのとき、私はこの世から暇乞《いとまご》ひせなければならないだらうか。人間の小さい時には親に死なれても、涙など出ないものである。即《すなは》ち、大人のやうに強い悲しみが無いものである。明治二十四年、私の祖父が歿した。夜半過ぎて息を引きとり、そのとき祖母も母も泣いてゐたが、私(即ち孫)は、涙がすこしも出なかつた。炬燵《こたつ》の布団の中にもぐりながら、祖母なんかがどうしてあんなに泣くかと思つたことがある。そのとき私は既に小学校に入つてゐたのであるが、祖父の死に際してそんなに悲しくなかつたといふ、追憶が浮んでくるのである。
私が死んだなら、小さい孫どもはさぞ歎くだらうなどとおもふのは、ほしいままな自己的な想像に過ぎない。孫どもはかういふ老翁の死などには悲歎することなく、蜜柑《みかん》一つ奪はれたよりも感じないのである。そこですくすくと育つて行く。この老翁には毫末《がうまつ》の心配も要《い》らぬのである。
村の鎮守の丁寧に均《な》らされた砂上などには、殆《ほとん》ど極《き》まつて老媼が孫の相手をして遊んで居るのが見あたる。それをよく観察すると、老媼のその一挙手一投足が、いかにも無理がなくて、神からさづけられた為事《しごと》のやうに見える。私の孫相手もまさにその如くであるだらう。この年をしていまだに和歌などを弄《もてあそ》んでをるのは重荷の筈《はず》であるのに、ひとはさうは思はぬであらうか。
今、二人は低い食卓に対《むか》ひあつて、食事をして居る。ときどき小さな争ひをして泣くが、また直ぐ仲直りをして、片ことの日本語をいふ。日本語の初歩で、『むつみ合』つて居る。日本語は極めて面倒な国語だと云はれるが、彼等もそれを使ふ運命に置かれてゐる。
底本:「斎藤茂吉選集 第十二巻」岩波書店
1982(昭和57)年2月26日第1刷発行
初出:「群像」
1950(昭和25)年3月
入力:しだひろし
校正:門田裕志
2006年10月18日作成
青空文庫
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