験などをも考へて居たものである。それが無理なく調和がとれるやうになるまでは、時間がかかるだらうといふのはそんなわけ合ひがあるのである。
 孫の生れた昭和二十一年四月は、私が山形県の大石田といふところにゐた。孫の母が時たま孫の絵をかいてよこしたり、写真を送つてくれたり、生長の様子をかいてよこしたりするので、私は想像して孫のことをいろいろに思つてゐた。
 私は二十二年の十一月に東京に帰つて来た。そのとき、大石田の友人いふに、『まあお孫さんが先生になじむ迄《まで》は四五日はかかりませうな』云々。然るに私はその友人と二人で東京に来てみると、孫は、来た次の日にはもう私に抱かれるやうになつた。食べものを与へるとよろこんて食べる、請求もするといふありさまである。友人は笑つて、
『先生、やはり血筋ですべえな』云々。
 この『血筋』といふことは元から云はれたことである。この孫の父、つまり私の長男が小さかつたとき、私の親友が抱いても泣きさけぶのに、偶※[#二の字点、1−2−22]《たまたま》上京してゐた私の長兄には平然として抱かれてゐた。そこで『血筋』の問題が出たのであるが、そのとき長兄がいふに『やはりおれは父親にどこか似てゐるところがあるんだ。子どもは動物みたいなもんだからそれを勘づくんだ。それは血筋といへば血筋なんだが』云々。兄貴の動物説もまんざら誤ではあるまいと思つて、いまだに忘れずに居る。『孫は子よりも可愛いと申しますね』と人にいはれる。これは実際そのやうである。併《しか》し、何のためにさういふものであるのか、私にもよく分からない。私が二階に臥《ね》てゐると、二人の孫が下の廊下を駆《か》ける音がする。その音を聞いてゐると、何ともいへぬ可愛い感じである。私は、これが孫の可愛い感じといふものだらう、理窟《りくつ》はいろいろあるかも知れんが、吉士が佳女のこゑに心|牽《ひ》かれるやうなものかも知れん、私が医科大学一年生のとき、独逸《ドイツ》のヴエルヴオルン教授の生理学汎論を読み、タクシスの説を学んだことがある、孫が可愛いなどといふのは、煎《せん》じつめれば、何か知らんあんなものでもあるのかも知れないなどと思ふことがある。
 私の祖父は一面は酒客でデカダン気味のところのあつた人だが、孫の私なども可愛がつてくれた、木苺《きいちご》の熟す時分になると、七歳ぐらゐになる私を連れて、山の谿流に沿
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