ことにつき木村正辞、井上通泰の説があるから、別なところに記して置いた。[#ここで割り注終わり])この事は山田博士も、『余はこれは一人の妻の死を傷める一回の詠なりと信ず』([#ここから割り注]講義巻第二[#ここで割り注終わり])と論断してゐる。そしてこの人麿の妻の死を文武四年三月以後([#ここから割り注]仮に文武四年[#ここで割り注終わり])とし、それから依羅娘子を娶つたとし、人麿の死を和銅三年三月([#ここから割り注]寧楽遷都[#ここで割り注終わり])以前で、仮に和銅二年だとせば、その間和銅二年迄九年の歳月があるのだから、依羅娘子との関係も理解が出来、石見娘子([#ここから割り注]即ち依羅娘子[#ここで割り注終わり])と別れた時の長歌に、『玉藻なす寄り寝し妹』といひ、『さ寝し夜は幾《いく》だもあらず』といふ句が理解出来るのである。和銅二年を人麿四十七歳と仮定すれば依羅娘子を娶つたのは慶雲元年あたりで四十二歳位ででもあつただらうか。依羅娘子は歌も相当に作つた女であつた。代匠記、依羅娘子が人麿と別るる歌の処に、『人麿の前妻は文武天皇四年以後死去と見えたり。[#ここから割り注]中略[#ここで
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