川東岸に住んでゐたらしい。それは今の板垣氏宅の近くであつただらうといはれてゐる。川水に関し、板垣氏は乗船寺にある過去帳を調べたことがあるが、今の高桑一門の一人だといふことが分かつた。現在の町長高桑祐太郎氏の祖先といふことになるのであらうか。
新庄の俳人は風流(渋谷甚兵衛)、柳風(渋谷仁兵衛)、孤松(加藤四郎兵衛)、如流(今藤彦兵衛)、木端(小村善右衛門)等である。六月三日、天気よく、二人は新庄を立ち、一里半程行つて、本合海《もとあひかい》から乗船した。それから古口《ふるくち》で乗継し、清川を経、雁川で下船した。それから羽黒へ行つてゐる。当時は船に乗るにも一々添状を頼りにしたもので、やはり旅は難儀であつたことが分かる。
芭蕉と曾良は大石田から乗船しようと思つて、日和を待つてゐたが、最上川が増水して、なかなか船が出ない。そこで計画を変更して陸路を行くことにしたのであらう。途中|猿羽根《さばね》峠がある。眺望の利くところで、又『猿羽根山こえ舟形こえて逢ひに来たぞえ万場町に』といふ新庄ぶしのある山である。芭蕉と曾良は馬に乗つてその峠を越え、舟形をとほり、新庄に行つたものである。
芭蕉の行動を挿入したから、話が前後したが、ついでに尾花沢以来の芭蕉の行動を補入することにする。五月十六日、羽前村山郡新庄領の堺田に著き大雨のため宿る。十七日快晴出発、案内人に荷を持たせ山中を通り、市野々、関谷を経て正厳で大夕立に逢つたりして昼頃尾花沢の清風宅へ著いた。十八日、養泉寺に移つた。十九日、養泉寺、素英(打川伊左衛門)宅に招かれ奈良茶漬の御馳走。廿日、養泉寺、廿一日、朝、小三郎(似休の子)に招かる。夜、遊川(沼沢所左衛門)に招かる。清風宅に泊る。廿二日、夜素英に招かる。清風宅に泊る(?)。廿三日、夜秋調(仁左衛門)に招かる。清風宅に泊る。廿四日、夜一橋寺で食事、養泉寺泊。廿五日、大石田から川水訪問したが、皆の都合わるく俳諧をせずにしまつた。夜、秋調から招かる。廿六日、遊川と東陽(歌川平蔵)と逢ふ。
廿七日、始めて天気になつたので、馬で尾花沢を立つて、楯岡、天童を経て山寺著。巡拝、坊に泊る。山形に行かうとしたが止めた。廿八日、馬で、天童、六田、上飯田を経て、午後一時頃、大石田の一栄宅に着いた。上飯田迄川水出迎へた。廿九日、黒滝向川寺参詣(曾良行かず)、夕食川水宅。一栄宅泊。卅日、歌仙一巻終了、書了。六月朔日、大石田出発。かういふ順序である。
最上川の支流は、なほ下流に向つて数ふれば、小国川、鮭川(真室川大沢川合流)、立谷沢川、赤川等がある。赤川最も大きく、湯殿山の谿谷から発して、酒田近くで、最上川に入つてゐる。是等の支流と本流との関係は学者の論ずるところで有益である。
底本:「日本の名随筆33 水」作品社
1985(昭和60)年7月25日第1刷発行
1996(平成8)年2月29日第15刷発行
底本の親本:「齋藤茂吉全集 第七巻」岩波書店
1975(昭和50)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:氷魚、多羅尾伴内
2003年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
斎藤 茂吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング