のために家を取りこぼつてゐる最中であつた。労働服などを著《き》て埃《ほこり》の中で立働いてゐた。致方《いたしかた》がないので、その近くの歯科をたづねると、いづれも休院か廃院の有様であつた。困つてゐると、渋谷美竹町にある大久保歯科医院を教へてくれた人があつたので、訪ねて応急手当を依頼したところが、大久保氏は特別の好意を寄せられ、義歯の割れたところを大急ぎで修繕してくれた。しかし未《ま》だしつくりしないので四五日その歯科医院に通つた。その間にも毎日のやうに空襲警報が発せられたが、自分はついでに丸通を訪問して、自分の荷を動かしてもらふことに努めた。また、吉田勲生氏の恩頼を受けた。さうして四月中ばに自分は上野駅を立つて郷里へ逃げて行つた。それからも荷がなかなか届かず、殆《ほとん》ど諦《あきら》めてゐたところが、だいぶ経《た》つてから荷が届いた。日用生活の品物であつたが、これも彼《か》の小山ほど積まつた荷の名状すべからざる中をくぐり通過して、遙々《はるばる》届けられたのだとおもふと、自分は日本の運輸機関を祝福し感謝したのであつた。人夫《にんぷ》は自分の疎開して居る、十右衛門の炉辺《ろへん》で夕飯を食ひ酒を飲んで帰つて行つた。
自分は今度三年ぶりで東京へ帰つて来た。さうして某日渋谷駅、渋谷駅貨物取扱所をたづねた。無用者立人禁止といふ札がかかつて居り、三年前のあの小山の如き、名状すべからざる荷のありさまと違ひ、フオームにはこぢんまりとして荷が積まれてあつた。自分は今昔の感に堪へぬといつた面持で暫くそこに佇立《ちよりつ》してゐた。それから、日本通運株式会社をたづねてみた。そこは一部の火災であつたらしいが、その隣に別に新築せられ、課長も替はつて居られた。ここは三年前、自分の屡《しばしば》訪れて荷を依頼したところである。さうして空襲の劇甚なころであつた。今は平和にかへり、機関も益《ますます》整頓せられた。自分は此処でも佇立してややしばらく感慨にふけつた。それから美竹町の歯科医院をたづねたが、そのあたり一面が灰燼に帰し、大久保氏の行方も不明であつた。自分は其処《そこ》を去つた。
自分は二月一たび山形県|上山《かみのやま》町に行き、弟が経営してゐる旅館山城屋に泊つて、疎開の相談をしたのであつた。先《ま》づ山城屋の近くに間借をし、山城屋で食事し、入浴したりして、その借りた部屋で寝起し
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