てそれに針で沢山の穴をあけて置く。また時々血を吸わせるには、太股《ふともも》のところに瓶の口を当てて置くと蚤が来て血を吸う。そういうときに交尾状態をも観察し得るので、あの小さい雄の奴がまるで電光の如くに雌に飛びつく。もはや清潔法は完備し、駆虫剤の普及のために蚤族も追々減少して見れば、そういう実験をしようとしても今は困難であるから、私の子どもなどはもうこういうことは知らないでいる。
 そうだ、火事のところでいい忘れたが、火事が近くて火の粉の降りかかって来たのが鳥越町に一つあった。また凄《すご》かったのは神田和泉町の第二医院の火事で、あまりの驚愕《きょうがく》に看護婦に気のふれたのがあって、げらげら笑うのを朋輩《ほうばい》が三、四人して連れて来るのを見たことがある。私がそんなに近く見たのはこの一例だけだけれども、そのころの東京の火事にはそんな例がざらにあったものとおもう。
 東京は大震災であのような試煉を経たが、私も後年に火難の試煉を経た。少年のとき屋根瓦にかじりついて、紅く燃えあがる吉原の火事を傍看したのとは違って、これはまたひどいともひどくないとも全く言語に絶した世界であった。私は香港《ホンコン》と上海《シャンハイ》との間の船上で私の家の全焼した電報を受取り、苦悩のうちに上海の歌会に出席して人々の楽しそうな歌を閲して批評などを加えつつ、不思議な気持で船房に帰ったことを今おもい出す。

       九

 私らが浅草を去って神田和泉町それから青山に転任するようになってから、私は一度東三筋町の旧宅地を見に行ったことがある。その時には、門から玄関に至るまで石畳になっていたところに、もう一棟家が建って糸の類を商売にする人が住んでいたようであった。しかし塀《へい》に沿うて路地を入って行くと井戸もそのままで、塀の節穴から覗《のぞ》けば庭も元のままで、その隣の庭もそのままのようで松樹などが塀の上からのぞいていた。その隣の庭というのは幕府時代の某の屋敷でなかなか立派であった。
 それから、昭和元年ごろ、歳晩《としのくれ》にも一度見て通ったことがある。その時には市区改正の最中で道路が掘りかえされ、震災後のバラック建《だて》であるし、殆《ほとん》ど元のおもかげがなくなっていた。私は泥濘《でいねい》の中を拾い歩きして辛うじて佐竹の通に出たのであった。
 それからついでがあって昭和十一年の一月と十月とに其処をたずねた。蔵前通を行くと、桃太郎団子はさびれてまだ残っていた。そして市区がすっかり改正されて、道路も舗装道になっているし、一月の時には三筋町の通りで羽子《はね》などを突いているのが幾組もあった。まがり角が簡易食店で西洋料理などを食べさせるところ。その隣は茶鋪、蝦蟇口《がまぐち》製造業、ボール筥《ばこ》製造業という家並で、そのあたりが私のいた医院のあとであった。その隣はカバン製造業、洋品店、玩具《がんぐ》問屋、煙草《たばこ》店、菓子店というような順序に並んでおり、路地に入ってみると、元庭であったところにもぎっしり家が建っており、そのあたりの住人も大体替ってしまっていた。その頃の煙草屋も薬種商も、綿屋も床屋も肉屋も炭屋も皆別な人で元のおもかげがなかった。私の気持からいえば先ずリップ・ワン・ウィンクルというところであった。
 一月の時には私は鳥越神社にも参拝した。神殿も宝庫も震災後|新《あらた》に建てられたもので、そのころ縁日のあったあたりとは何となく様子がかわっていた。それから北三筋町の方へも歩いて行って見た。今は小さい通りも多くなって、電車通に向いて救世軍の病院が立派に建っている。新堀は見えなくなってその上を電車の通ったのは前々からであるが、震災後|街衢《がいく》が段々立派になり、電車線路を隔てた栄久町の側には近代茶房ミナトなどという看板も見えているし、浄土宗浄念寺も立派に建立《こんりゅう》せられているし、また東京市精華尋常小学校は鉄筋|宏壮《こうそう》な建築物として空に聳《そび》えつつあった。かつて少年私の眼にとまった少女の通っていた学校である。
 私の追憶的随筆は、かくの如くに平凡な私事に終始してあとは何もいうことがない。ただ一事加えたいのは、父が此処に開業している間に、診察の謝礼に賀茂真淵書入《かものまぶちかきいれ》の『古今集』を貰《もら》った。多分田安家に奉ったものであっただろうとおもうが、佳品の朱で極めて丁寧に書いてあった。出処も好《よ》し、黒川|真頼《まより》翁の鑑定を経たもので、私が作歌を学ぶようになって以来、私は真淵崇拝であるところから、それを天からの授かり物のように大切にして長崎に行った時にもやはり一しょに持って歩いていたほどであったが、大正十三年暮の火災のとき灰燼《かいじん》になってしまった。私の書架は貧しくて何も目ぼしいもの
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