、玉子とじという蕎麦を食べさせた。私は仙台の旅舎で最中という菓子を食べて感動したごとく、世の中にこんな旨《うま》いものがあるだろうかと思ったが、程経《ほどへ》て、てんぷら、おやこ、ごもく、おかめなどという種蕎麦のあることを知って、誠に驚かざることを得なかった。
 それから佐竹の通りには馬肉屋が数軒あったが、私はそういう処に入ることを知らなかった。ただ市村《いちむら》座の向側に小さい馬肉の煮込を食わせるところがあり、その煮方には一種の骨《こつ》があって余所《よそ》では味《あじわ》えない味を出していた。うちの書生の説に椿《つばき》油か何かを入れるのではなかろうかというのであったが、よくは分からない。
 夜十時過ぎになると書生も代診も交って籤《くじ》を引いて当った者が東三筋町から和泉《いずみ》町のその馬肉屋まで買いに来る。今どきの少年は馬肉は軽蔑して食わぬし、ビステキなども上等のを食いたがるけれども、馬肉を食わぬからといって皆|賢《かしこ》くなるというわけではない。また、大正十年の夏、私は信州富士見に転地していたとき、あの近在に或る神社の祭礼があって、そこでやはり馬肉の煮込を食べたことがある。その味は市村座の向側の馬肉屋の煮込そっくりであったから、煮込む骨に共通の点があったのかも知れない。
 郷里を立つとき祖母は私に僅《わず》かばかりの小遣銭《こづかいせん》をくれていうに、東京には焼芋《やきいも》というものがある、腹が減ったらそれを食え。そこで私は学校の帰りには、左衛門橋の袂《たもと》の焼芋屋によって五厘ずつ買った。そのころ五厘で焼芋三個くれたものである。
 母は私を可哀がって学校から帰るとかけ蕎麦を取ってくれた。もりかけが一銭二厘から一銭六厘になった頃で大概三つぐらいは食った。
 また、夜おそくなると書生と牛飯というのを食いに行き行きした。一|碗《わん》一銭五厘ぐらいで赤い唐辛子粉《とうがらしこ》などをかけて食べさせた。今でも浅草の観世音近くに屋台店が幾つもあるけれども、汁が甘くて駄目になった。その頃はあんなに甘くなかった。
 私と同様出京して正則《せいそく》英語学校に通っていた従弟《いとこ》が、ある日日本橋を歩いていて握鮓《にぎりずし》の屋台に入り、三つばかり食ってから、蝦蟇口《がまぐち》に二銭しかなくて苦しんだ話をしたことがある。その話を聞いて私は一切すしというものを食う気がしなかった。鰻丼《うなどん》なども上等なもてなしの一つで、半分残すのが礼儀のような時代であったところを思うと、養殖が盛になったために吾々《われわれ》はありがたい世に生きているわけである。

       六

 そのころ奠都《てんと》祭というものがあって式場は多分|日比谷《ひびや》だったようにおもう。紅い袴《はかま》を穿《は》いた少女の一群を見て非常に美しく思ったことがある。それから間もなく女学生が紅い袴を穿き、ついで蝦茶《えびちゃ》の袴がある期間流行して、どのくらい青年の心を牽《ひき》つけたか知れぬが、そのころはまだそれが、なかった。
 東三筋町に近い、鳥越《とりごえ》町に渡辺省亭《わたなべせいてい》画伯が住んでおられて、令嬢は人力車でお茶の水の女学校に通った。その時は髪を桃割《ももわれ》に結って蝦茶の袴は未だ穿いていなかったから私はよくおぼえている。俳人渡辺|水巴《すいは》氏は省亭画伯の令息で、正月のカルタ遊びなどにはよく来られたものである。もう夢のような追憶であるからおぼつかない点もあるが、水巴は俳人、茂吉は歌人となったわけである。
 黒川|真頼《まより》翁も具合の悪いときには父の治療を受けた。晩年の真頼翁はもう頭の毛をつるつるに剃《そ》っておられた。体が癢《かゆ》くて困るといわれてうちの代診の工夫で硫黄《いおう》の風呂《ふろ》を立てたこともあり、最上《もがみ》高湯の湯花を用いたことなどもあった。いまだ少年であった私が縦《たと》い翁と直接話を交《かわ》すことが出来なくとも、一代の碩学《せきがく》の風貌《ふうぼう》を覗《のぞ》き見するだけでも大きい感化であった。そのころの開業医と患家とのあいだには、そのような親しみもあり徳分もあったものである。しかし父も精神科専門になってからはそういう患家との親しみは失《う》せた。このことには実に微妙なる関係があって、父は、「感謝せらるる医者」から「感謝せられざる医者」に転じたわけである。精神病医者というものは、患者は無論患者の家族からも感謝せられざる医者である。
 私は東京に来て、浅草三筋町において春機発動期に入った。当時は映画などは無論なく、寄席にも芝居にも行かず、勧学の文にある、「書中女あり顔玉のごとし」などということが沁《し》み込んでいるのだから、今どきの少年の心理などよりはまだまだ刺戟《しげき》も少く万事が単
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