く。僕は井上通泰さんのやうに、結句は三四調であるべきだなどとは云はんが、今度の歌の結句の四三調には肯んじがたいのがある。われ等の祖先の作に、『雲たちわたる』とか、『打ちてしやまむ』とか、『のどには死なじ』などの遒勁流轉の結句があるのに、君の歌のはなぜさう行かないのであらうか。
クールベのエトルダの斷岩のやうな、海波圖のやうな、ロダンの考へる人のやうな、レムブラントの自畫像のやうな、ああいふところに目を据ゑたこともあるが、力及ばずに了つてしまつて、今おもふと恥かしい事がある。それゆゑ僕はこれを同志に望んでゐる。同志に望むのは一番自然だと思ふからである。君はさう思はないか。
僕は今二軒長屋のせまいところに住んでゐて、夜になると、來訪者のないときははやく床をのべてその中にもぐつて芭蕉や、「高瀬舟」などを讀んでゐる。壁一重の向う長屋には二夫婦がゐて、若夫婦が二階に寢てゐる。寢がへりするのも手にとるやうにきこえる。寂しい生活をしてゐると、官能が鋭敏で鈍麻はしない。かういふときには芭蕉のものは割合にわかる。君のやうに性欲の淡い、僧侶のやうな生活を實行してゐる人が、なぜこんどの歌のやうにさうざうしく痩氣味の歌を作るだらうか。
『※[#白ビュレット、1−3−31]※[#ゴマ、1−3−30]』などの切目が間々あるが、あれも短歌を三行に書くのと似てゐて少し面白くない。又今度の歌には少し小きざみ[#「小きざみ」に傍点]に過ぎるやうなのが多い。また固有名詞でも、『思案外史』はまだいい。『金太郎』『お久米』『お花』『祐輔』などは、どうも歌調を輕くさせると思ふ。短歌一首は大體連續してゐて、そしてもつと圖太い調べであるのが本來のやうな氣がしてならない。粟粒數よりも多い世間並人は、少し古語でも這入つてゐると、すぐ古調とか、擬古調とか、萬葉迷執とか云つてしまふが、あれは僕ら同志の説とはちがふのであつて、僕らの『萬葉調』は言葉の『意味あひ』に止まつてゐず、『語氣』に注意してゐる筈である。君のこのたびの歌にはその『萬葉びとの語氣』と相通ずる點が割合に少いやうな氣がするが君はどう思ふ。
それから世間びとはかう云ふ。『萬葉集に取るべき點はその精神[#「精神」に白丸傍点]であつて、その外形[#「外形」に白丸傍点]ではない』こんな事をいふ。かれ等の謂ふ『精神』といふのは、極めて抽象的な、肉體からふらふらと
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