るが、それがだんだん除かれて行つた。子規ほど病牀《びやうしやう》生活で苦しまなかつただけ、呑気ではなく、鋭いところが未だ消えずにゐる。石川|啄木《たくぼく》などでもやはり同じ径路を取つてゐる。
そこに行くと樗牛とか梁川などは、趣が違ふ。「我が袖の記」から「清見潟の記」になると余程平淡になつて来てゐるが、やはり感慨が露《あら》はに出てゐる。前二者の客観的なのに較《くら》べて主観的であり、抒情《じよじやう》的である。樗牛がニイチエから日蓮に行つて、アフオリスメン風の文を書いてゐるとき、梁川は荘重で佳麗な見神《けんしん》の文章なんかを書いてゐる。是等《これら》はおなじく、神経の雋鋭《しゆんえい》になつたための一つの証候であるが、これは気稟《きひん》に本づく方嚮《はうかう》の違ひであると謂《い》つていいだらう。樗牛でも梁川でも若くて死んでゐるが、健康な人には出来ない点がやはり存じてゐる。
森鴎外が、『遺言には随分面白いのがあるもので、現に子規の自筆の墓誌|抔《など》も愛敬《あいきやう》が有つて好い。樗牛の清見潟は崇高だらうが、我々なんぞとは、趣味が違ふ』云々と云つたのは、たいへん面白い。子規の墓誌は簡明な履歴で、日本新聞社員タリ月給四十円などと書いた文章をいふので、樗牛のは、有名な『吾人はすべからく現代を超越せざるべからず』をいふのである。
若《も》し結核性の病で倒れずに、病に罹《かか》りながら五十年も文学者的活動を続けられるものならば、興味あることに私は思ふが、佳境に入れば死んでしまふし、癒《なほ》つてしまへば平凡になつてしまふからやはり駄目である。
底本:「斎藤茂吉選集 第八巻」岩波書店
1981(昭和56)年5月27日第1刷発行
初出:「随筆」
1926(大正15)年10月
入力:kamille
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年1月7日作成
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