いると、たちまちに長い鋭いひと声が家のなかでひびいた。それは女の喉《のど》から出たらしい。それと同時に、わたしは封建時代の金色《こんじき》の椅子や日本の骨董品に飾り立てられて、まばゆいばかりに照り輝いている大広間に立っていることを発見した。わたしのまわりには強い薫《かお》りが紫の靄《もや》となってただよっていた。
「さあ、さあ、花聟《はなむこ》さま。ちょうど、結婚の時刻でござります」
女の声がした時に、私は定めて盛装した若い清楚な貴婦人が紫の靄のなかから現われて来るものと思った。
「ようこそ、花聟さま」と、ふたたび金切り声がひびいたと思う刹那《せつな》、その声のぬしは腕を差し出しながら私のほうへ走って来た。寄る年波と狂気とで醜《みにく》くなった黄色い顔がじっと私に見入っているのである。私は怖ろしさのあまりに後ずさりをしようとしたが、蛇のように炯《けい》けいとした鋭い彼女の眼は、もうすっかり私を呪縛してしまったので、この怖ろしい老女から眼をそらすことも、身をひくことも出来なくなった。
彼女は一歩一歩と近づいて来る。その怖ろしい顔は仮面であって、その下にこそまぼろしの女の美しい顔がひそんでいるのではないかという考えが、稲妻《いなずま》のように私の頭にひらめいた。その時である。彼女の手が私のからだに触れるか触れないうちに、彼女は大きい唸り声を立てて私の足もとにばたりと倒れた。
「はははは。悪性者《あくしょうもの》めがおまえの美しさにちょっかい[#「ちょっかい」に傍点]を出しているな。さあ、寝てしまえ、寝てしまえ。さもないと鞭《むち》だぞ。手ひどいやつをお見舞い申すぞ」
こういう声に、私は急に振り返ると、かの老執事が寝巻のままで頭の上に鞭を振り廻しているではないか。老執事はわたしの足もとに唸っている彼女を、あわやぶちのめそうとしたので、私はあわててその腕をつかむと、老執事は振り払った。
「悪性者め、もしわしが助けに来なければ、あの老いぼれの悪魔めに喰い殺されていただろうに……。さあ、すぐにここを出て行ってもらおう」と、彼は呶鳴った。
わたしは広間から飛んで出たが、なにしろ真っ暗であるので、どこが出口であるか見当《けんとう》がつかない。そのうちに私のうしろでは、ひゅうひゅうという鞭の音がきこえて、女の叫び声がひびいて来た。
たまらなくなって、私は大きい声を出して救い
前へ
次へ
全20ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ホフマン エルンスト・テオドーア・アマーデウス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング