もかくもその靄が消えるとともに、彼女の顔も玲瓏《れいろう》たる鏡のなかへ消え失せてしまったのである。

 それから幾日のあいだの私の心持ちを今更くどく説明して、諸君を退屈させることもあるまい。ただそのあいだに私はいくたびか、かの鏡に息をかけてみたが、まぼろしの女の顔が現われる時と現われない時とがあったことだけを断わっておきたい。
 彼女を呼び起こすことの出来ない時には、私はいつも、かの廃宅の前へ飛んで行って、その窓を眺め暮らしていたが、もうそこらには人らしいものも見当たらなかった。私はもう友達も仕事もまったく振り捨てて、朝から晩まで気違いのようになって、まぼろしの女のことを思いつめていた。こんなくだらないことはやめようと思いながらも、それがどうもやめられないのであった。
 ある日、いつもより激しくこの幻影におそわれた私は、かの鏡をポケットに入れると、精神病の大家のK博士のもとへ急いで行った。わたしは一切の話を包まず打ち明けて、この怖ろしい運命から救ってくれと哀願すると、静かに私の話を聴いていた博士の眼にも、一種の驚愕《おどろき》の色がひらめいた。
「いや、そう御心配のことはないでしょう。まあ、私の考えではじきに癒《なお》ると思いますよ。あなたは自分から魔法にかかっていると思い込んで、それと戦おうとしているがために、かえって妄念が起こるのです。まずあなたのその鏡を私のところへ置いていって、専心にお仕事に没頭なさるようにお努めなさい。そうして、忘れても並木通りへは足を向けないようにして、一日の仕事をしてから長い散歩をしては、お友達の一座と楽しくお過ごしなさい。食事は十分に摂《と》って、営養のゆたかな葡萄酒をお飲みなさい。これから私は、その廃宅の窓や鏡に現われる女の顔の執念ぶかい幻影と戦って、あなたを心身ともに丈夫にしてあげるつもりですから、あなたも私の味方をする気になって、わたしの言う通りを守って下さい」と、博士は言った。
 渋《しぶ》しぶながらに鏡を手放した私の態度を、博士はじっと見ていたらしかった。それから博士はその鏡に自分の息を吹きかけて、それを私の眼の前へ持って来た。
「何か見えますか」
「いいえ、なんにも」と、私はありのままを答えた。
「では、今度はあなた自身がこの鏡に息をかけてごらんなさい」と、博士はわたしの手に鏡をわたした。
 わたしは博士の言う通りにする
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