いであった。
 私はこの窓の神秘的な女性にたましいを奪われてしまって、私のそばへ押し売りに来たイタリー人の物売りの声などは耳に入らないほどに興奮していた。そのイタリー人はとうとう私の腕をたたいたので、私ははっと我れにかえったが、あまりに忌《いま》いましかったので、おれにかまうな、あっちへ行けと言ってやったが、まだ口明けだからと執拗《しつこ》く言うので、早く追い払おうと思ってポケットの金を出しにかかると、彼は言った。
「旦那。こんなに素敵な物があるんです」
 彼は箱の抽斗《ひきだし》から小さな円い懐中鏡をとり出して、わたしの鼻のさきへ突きつけたので、なんの気もなしに見かえると、その鏡のなかには廃宅の窓も、かのまぼろしの女の姿も、ありありと映っているではないか。
 私はすぐにその鏡を買った。そうして、鏡のなかの彼女の姿を見れば見るほど、だんだんに不思議な感動に打たれてきた。じっと瞳《ひとみ》をこらして鏡のなかを見つめていると、さながら嗜眠病がわたしの視力を狂わせてしまったようにも思われてきた。まぼろしの女はとうとうその美しい眼をわたしの上にそそいだ。その柔らかい眼の光りがわたしの心臓にしみとおってきた。
「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな」
 こういう声に夢から醒めて、わたしは鏡から眼を離すと、わたしの両側には微笑をうかべながら私を眺めている人たちがあるので、私もすこぶる面喰らってしまった。かの人たちはわたしと同じベンチに腰をかけて、おそらく私が妙な顔をして鏡をながめているのをおもしろがって見物していたのであろう。
「あなたは可愛らしい鏡をお持ちですな」
 私がさきに答えなかったので、その人は再びおなじ言葉をくりかえした。
 しかも、その人の眼つきはその言葉よりも更に雄弁に、どうしておまえはそんな気違いじみた眼つきをしてその鏡に見惚《みと》れているかと、わたしに問いかけているのであった。その男はもう初老以上の年輩の紳士で、その声音《こわね》や眼つきがいかにも温和な感じをあたえたので、私は彼に対して自分の秘密を隠してはいられなくなった。私はかの窓ぎわの女を鏡に映していたことを打ち明けた上で、あなたもその美しい女の顔を見なかったかと訊いた。
「ここから……。あの古い邸の二階の窓に……」
 その老紳士は驚いたような顔をして、鸚鵡《おうむ》がえしに問いかえした。
「ええ、そう
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