中心に置いている。思い附きであり、そうらしいと推し量るに過ぎないが、それでも構わぬとなれば、言うことはいくらでもある。思ったとおりに何でも言いたいのが鶴見の性分《しょうぶん》である。それを先ず言っておいて、疑わしいところは教を受けたいと思っているのである。
 石蒜についてもまだかかわりがある。自分の意見は出し尽していない。心のなかのどこかに札《ふだ》を掛けておいたなりではいつまでも気にかかる。それを鍵から脱《はず》して見たいのである。
 第一は石蒜が人里近く分布しているという事。そこにふと気が附いた。気が附いて、いろいろ思い合せると、どうもそうらしい。山にも生えていないし、曠野にも見当らない。
 石蒜が群をなして繁っている場所は、田舎道の両側か、草土手か、墓地か、そんなところが数えられる。彼岸花、天蓋花《てんがいばな》、死人花《しびとばな》、幽霊花、狐花などという、あまり好ましくない和名が民間に行われている故以《ゆえん》であろう。その中で穏かなのは彼岸花というのだけである。それとても抹香臭《まっこうくさ》い。もともと実物がわが国になかったところへ、何かの理由があって余所《よそ》から這入《はい》って来た。その理由が忘れられた後になって、あの異常な生態が忌《い》まれだした。葉は夏になると、すっかり枯れてしまう。それが秋の彼岸ごろになって、地面からいきなりに花茎だけを抽《ぬき》んでる。咲く花もまた狂ったように見える。忌まれたのはそういうわけからであったらしい。それから墓場の手向草《たむけぐさ》のようになって、いよいよ嫌われることになった。石蒜の歴史はざっとそういうところに帰著する。
 要するに石蒜は外来種であって、人はその効用に無知になっている。そしてあのめざましい美花がついぞ観賞もせられずに、長いあいだ、路傍にうち棄てられてあった。やっとこの頃になって、いけ花の方で装飾的に使われてはいるが、まだまだ遠慮がちに取り扱われている。
 石蒜のこの国で受けた運命は随分はかないものである。鶴見はそんなことを考えながら、庭の草※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《くさむし》りをするついでに、石蒜の生える場所を綺麗に掃除をしておいた。濡縁《ぬれえん》の横の戸袋《とぶくろ》の前に南天の株が植えてある。その南天の根方《ねかた》である。おもうにはじめ南天を移しうえたとき、その根に
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