、鶴見はここに読み到って、また新に卯の花が眼のあたりに咲き返って来たような心地がした。
 これは極めて単純な例示に過ぎないが、鴎外の観照的能力がその具現を見せるときに、適確な記述の文章を背地に置いて奈何《いか》に肯綮《こうけい》に当り、手に入ったものであるかは、原文が簡単であるだけになおよく分る。
 鶴見が今挙げた卯の花は阿部家滅亡の雰囲気のなかにくっきりと花を咲かせていたが、それとは別に内藤長十郎|殉死《じゅんし》の事がその前段にある。そこでは、丈《たけ》の高い石の頂《いただき》を掘り窪《くぼ》めた手水鉢《ちょうずばち》に捲物《まきもの》の柄杓《ひしゃく》が伏せてある。その柄杓に、やんまが一|疋《ぴき》止まって、羽を山形に垂れている。吹田順助《すいだじゅんすけ》さんはこの蜻蛉《とんぼ》の描写を特に推奨して、こういった。――鴎外は取り乱さざるを沈著な態度を以て事象の実相を観照することを忘れていない。年代記的なもの、史伝的なものを書く場合でも、そういう観照力が時々片鱗を示して、無味なるべき叙述に塩を与えてくれる。『阿部一族』における蜻蛉の描写なども凄いほどの効果を示しているといって、鴎外の実相観入の力を称《たた》えている。
 その通りである。鶴見は一も二もなくそう思った。長十郎はその日一家四人と別れの杯《さかずき》を酌《く》み交《かわ》し、母のすすめに任せて、もとより酒好きであった長十郎は更に杯を重ね、快く酔って、微笑を含んだまま午睡《ごすい》をした。家の内は物音一つ聞えずにひっそりしている。窓の吊葱《つりしのぶ》に下げた風鈴《ふうりん》が折々|微《かす》かに鳴るだけである。かような奥深い静寂が前に挙げたような状態で一疋のやんまに具体化されているのである。この場合それはむしろ象徴といった方が好いかも知れない。
 吹田さんは鴎外の文をよく読んでよく理解された。吹田さんはよほどこの蜻蛉に強く打たれたものと見えて、その感動をただ物凄いとかぞっとしたとかいう言葉で言い現わしているが、それも鴎外をよく読んだものの純粋|無垢《むく》なる感歎であろう。鶴見はそう思って見て、かえって自分がこの微妙な描写に行き当った時、最初果してどういう衝撃を受けたか、そこのところを顧みなくてはならなくなった。そして彼は吹田さんに対しても鴎外に対しても大《おおい》に恥じねばならないと思った。正直のとこ
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