に対してはいつでも興味だけは伸《の》びるままに伸していた。
 それで時々思い附くことがある。
 その思い附きを趁《お》って空想を馳《は》せることに、鶴見は特に興味を感ずる。新聞社に投じた文章もそうした思い附きの一つに過ぎなかった。勿論科学的研究というようなしっかりしたものでないから根拠が浅い。肩を衝《つ》かれ腰を打たれれば直ぐにも転ぶ。そんなことは厭《いと》ってはいられない。人がためらって口に出さぬことを、ただ思い附きなりに素直にいって置きたい。それが念願である。そしてそんな思い附きでも何かの機縁になって、他日良果を結ぶことでもあればなんぞと、当《あて》にもならぬ先の先を見越して空頼《そらだの》みしていることもあるのである。
 現に外国文化の影響は今日の食制の上に痛切な影を投じている。米食と並んで粉食がやがて国俗となろうとしていることである。外来の物を受け入れるにはそれに相応する理由があるのではあるが、それにはまた思いも掛けぬ動機と機縁とがあることも忘れてはならない。
 ここに石蒜《せきさん》の一例がある。鶴見はそれを面白い語り草としてよろこんでいる、伊沢蘭軒《いざわらんけん》が石蒜を詩に入れているのを発見したといって、鴎外がひどく珍らしがっている、あの一条の話である。これは鴎外の大著蘭軒伝中に事をわけて備《つぶ》さに述べてある。この日鴎外は文部省展覧会で児童が石蒜を摘《つ》んで帰る図を観てこれを奇としたが、その夜蘭軒詩を閲《えっ》してまたこの花に逢ったといってある。そして石蒜は和名したまがり、死人花《しびとばな》、幽霊花の方言があって、邦人に忌《い》まれている。しかし英国人はその根を伝えて栽培し、一盆の価《あたい》往々数|磅《ポンド》に上っていると書き加えているが、その石蒜がいかなる経路を取ってかの国に伝えられたかは語っていない。
 因《ちなみ》にいう。鴎外の文中、昔年|池辺義象《いけべよしかた》さんの紀行に歌一首があったと思うが、今は忘れたというのは、鴎外自身が「きつねばな」と題して、『藝文』第二号(明治三十五年八月)に掲げた短文がある。それによると、藤園池辺氏が丹波《たんば》に遊んで大江山《おおえやま》あたりを歩いたとき、九州辺で彼岸花《ひがんばな》というものを、土地の人に聞けばきつねばなと答えたといって、「姫百合のおもかげ見せてあきの野に人たぶらかすきつね花
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