て好い。むしろ分り過ぎるくらい分っているが、それだけでは納得されない。泡鳴の日常を知るものならば、何が彼を唐突《とうとつ》な行動に導くか、その行動の結果がどのように彼の生涯を彩《いろど》るか、それについての推量はほぼつくことである。泡鳴には常に動いて止まぬ好奇心がある。その発作は自然でもあり、また異常でもある。この矛盾を即座に生ずる烈しい衝動が、その力を以て混同する。そこに泡鳴の行動が彗星の如く出現し発光する。彼に対する批評はいつでもこの衝動的な実行に向けられる。一度念頭に湧き上ったものを、善《よ》くも悪《あ》しくも、直ちに実行する。泡鳴の生活はそれほどまでに簡単である。他人の批評はそれでも気にしていたが、決してそれによって動かされることもなかった。彼の経験は、とにもかくにも、そういうような道をたどって累積せられたのである。
泡鳴が衝動的行動を取るとき、もとよりそこに一分の余裕を持っていたはずはない。ただ彼の作家かたぎが、彼をして後からその行動を豊富な経験として客観せしめた。そうでなければ、彼の生涯は悲壮な色を極度に帯びていたに違いない。しかるに彼は存外楽観的であった。それが慣習となって、その効果が一面|抜目《ぬけめ》がなく如才のない性格を彼に附与した。それがために時としては狡猾《こうかつ》とさえ思われた。
泡鳴はいつも物質に惑溺《わくでき》していて、その惑溺のうちに恋愛と神性とを求めていた。彼は暫くも傍観者として立ってはいられなかった。人生に対する観察はいよいよ手馴らされ、皮肉になり、それと共に彼の好奇心は弥《いや》が上にも昂進して行った。
鶴見はこの頃になって、泡鳴をバルザックに比較して考えて見るようになった。両者の間に相似点がある。押詰めて検討して行けばおもしろかろうなどと思っている。
泡鳴の晩年にはそういう状態が既に熟していたが、鶴見を銭湯に促がした時分の泡鳴にも早くそれらの傾向は現われていたのである。好奇の心を養うためには犠牲を要する。その犠牲に手を伸《のば》す貪婪《どんらん》さを彼ぐらい露骨に示したものも少かろう。鶴見が銭湯に誘《さそ》われたのを犠牲と呼ぶには当らないが、どういうものか、そういうような気持がふと心のなかを掠《かす》めて行った。僻目《ひがめ》であろうかと恐れたが、それかといって、その疑を払拭する反証をも捉え得なかった。
鶴見は気張
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