る。宗祇にしても芭蕉にしてもそうじゃないか。みんなああいう人たちは好い死かたをしている。おれはそう思っているのだ。」
「芭蕉から宗祇へ遡ってみればよくわかるように、人の死かたにも伝統があるね。それでは宗祇からどこに遡れるか、そう問われればぼくは直《ただち》に定家卿というね。」
「いかにも――。」
「そうじゃないか。定家はもちろん旅で死んだというのではない。だがね、好い死かたをしたというのは旅で死んだというだけではないのだろう。芸術に対する執心、その執心のなかに永遠のすがたをみたいという願望、好いかね、その願望がはてしない旅をつづけさせているのだ。芭蕉の「曠野《あらの》の夢、宗祇の月をながめて」といった、あの臨終の言葉にこもるあくがれごこち、どちらも芸術の執心に萌《きざ》さぬものはない。定家とすれば俊成の幽玄から更に自個の立場を明らかにしようとして有心《うしん》を説く。芸術の分野で絶えず完成されぬ旅をつづけていたということになる。そうだろう。」
「おれもそう思っているのだよ。それにしても宗祇はえらかったね。長い間かれを知らずに過してきたのはおれの不覚であった。おれの生涯もまさに尽きようとしている。そんな時になって、やっとかれを知った。一端《いったん》知ってみれば、すぐかれがわが邦《くに》文芸道の第一人者ということが分ったね。実は驚いているところさ。」
「宗祇が『古今集』のやまとうたは人の心を種とするといっているのを釈して、それを元初一念の人の心と断じ、忽然《こつねん》念起、名づけて無明《むみょう》と為《な》すというのはこれだ。無明は煩悩《ぼんのう》だ。この元初の一念が一切万物の根元だといって、「さらば無明の一念より歌もいでくるなり」と確言している。卓見だね。きみもいつかこの『起信論』の忽然念起を挙げて衆生心にすべてをもとづけようとしていたね。」
「そのとおりだ。あんまり察しが好いのであとがこわいよ。でもね、かれが文芸復興期と変革期との交叉《こうさ》する辻に立って法を説いたということは争われない。復興期の人としては、美の伝統者でもあり、美の発見者でもあった。変革期の人としては啓蒙に従事した。そのためには東西に倦《う》むことなき旅をつづけていた。かれには宗教もあり哲学もあり学問もあった。そして人の心に自覚の精神を起して文化の光を認めさせるように努めていた。そういう人格者は
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