《し》いていえば、ただ「暗い」という一言で足りよう。目に見えぬものにも臭《にお》いはあろう。どんな臭いがするかと聞かれれば、「臭いはする。あの燐の一塊《ひとかたまり》を空気中に放出しておけば、ふすふすと白煙を揚《あ》げて自燃作用を起す、そのおりに発散するむせるような臭い、そんな臭いがする」と答えるのが関の山である。
絶体絶命の性慾のさせる仕業《しわざ》である。それを徒《いたずら》に観念の上で弄《もてあそ》んではいられない。鶴見はそう思ってひとり憮然《ぶぜん》とする。
回想がかれに要求するものは客観的な事象そのもののみである。勢い誰が見ていても誰が聞いていても、その通りだといわれる事柄の羅列に過ぎなくなる。この覚書とても冷静が要求されればされるほど、乾燥無味な叙述にならざるを得ない。
鶴見と目を見合せているのは貴族ともいわるべき家柄の女である。どんな冗談をいうときにも、すまして、さりげない風を装って、それがわざとらしく見えぬように取りつくろうことを瞬時も忘れない、そういう態度を匂《にお》い袋《ぶくろ》のように肌につけている女である。年は鶴見より五つも多い。恐らくは最初姫君として嫁いだであろう名誉あるその家にもいにくくなり、放恣《ほうし》に身を持ちくずして、困りもの我儘《わがまま》ものとして諸家に預けられ、無籍ものの浮浪にもひとしい生活をつづけていたことをも苦にせずに、かえってその境遇を利して自由に振舞って来た。この女にはそんな経歴がある。もともと竜造寺《りゅうぞうじ》氏の出だという。家系の立派さに先ず驚かされる。
九州でも今の地理からすれば辺陬《へんすう》と称しても好い土地に祖先以来の屋形《やかた》がある。小高い野づかさが縦に列んでいるのが特異な景観として目につきやすい。それが三つ、それぞれ何城と呼ばれて区別される。戦国時代の土豪の拠《よ》った砦跡《とりであと》である。その中央にある城あとに代々の屋形があって、ちょっとした壕《ほり》も廻らしている。屋形のうしろに断崖がある。八重垣落しである。
八重垣というのはこの竜造寺家幾代目かの寵姫《ちょうき》である。戦乱の収まって以来、戦勝者が本藩を建て、竜造寺家はその支藩の名の下にこの土地に封ぜられた。その八重垣姫には落度があった。それが無実であるかどうかは分らぬが、密通の重罪を負わされ、まる裸にさせられて馬の背にか
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