自の顔を見て、「あのね。家隆《いえたか》卿の歌にこんなのがあるのだよ。いいかね。――花をのみ待つらむ人に山里の雪間の草の春を見せばや。これなら分るだろう。雪間の草の春と一纏《ひとまと》めにいって、それを都の人々に見せてやりたい。実に好いじゃないか。どうだね」といって、ひとりで感心している。
「わたくしなぞには歌のことなんか分りっこはございませんが、そう仰《お》っしゃられれば、好い歌は好いと思われますね。」老刀自はしかたがなさそうに合槌《あいづち》を打つのである。
「それで好いのだ。その上に無理に詮索するにも及ばないが、おれには少し思いついたことがあるよ。」
鶴見はそういって置いて、この「見せばや」を問題に取り上げて、歌の成り立ちに関する考をやさしく分らせるにはどういう風に述べて行ったものかと、しきりに思案している。その見せてやりたいという相手は誰だろうか。歌の表の都の人々よりも、先ずもって作者自身ではなかったろうかと思って見る。そこが眼目だと気がつく。気がついて見れば、それでも解決がついたようなものである。「雪間の草の春」は陣痛の苦《くるしみ》を味って自分が生んだ胎児にちがいない。血を引いた個性がそこにあらわれている。もともと雪間の草を発見したのは自分自身である。自分の見方が好かった。正しかったからだとはいえる。しかし分身の胎児は、これを自分ひとりで生んだものと断言することが果たして出来ようか。自分の発見が種子《たね》となって、胎中にあって、ひそかに生態の形が整えられ、そしてかずけられた自然のいのちをちからとして生まれて来たものである。そこで自分ならぬ自分の声が聞えて来る。何といって好いものか、多分それを暗示とでもいうのだろう。その声が「見せばや」である。その声を聞くとともに自分から私というものが取り除かれる。そうなると今までは私のものであった「雪間の春」が直ちに転身して、ひろびろとした自由の世界の空気を呼吸する。その一部分を譬《たと》えていえば、ひとりよがりの自慢の手料理が、それどころでなく、立派な饗宴の膳部《ぜんぶ》の向附《むこうづけ》にもふさわしい滋味を備えたものになるのである。
鶴見はそれだけの説明を分りやすいように砕《くだ》いていおうとして見たが、思うようにはうまく行かなかった。ただいつになく熱意の籠っているのが窺われたので、老刀自は黙って聞いていた。
前へ
次へ
全116ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
蒲原 有明 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング